生命の「多様性」をひもとく

 

『「生命多元性原理」入門』太田邦史著を読む。
3つにポイントをしぼってまとめてみた。

 

1.「全球凍結」「エディアカラ生物群

 

「生物は、(一見そうは見えないかもしれないが)外部環境の変化に応じて絶えず変化している。自己変革を続ける多元的情報ネットワークといってよいかもしれない」

 

「生命体にとっては、最善状態に固定的であるより、絶えず移ろい、変化すること、また「多様にゆらいでいることのほうが重要である。固定的な一つの完成型に至るということは、そこには袋小路のような閉塞状況が現れたことを意味する。このような場合、環境への適応が次第に弱くなり、やがて絶滅する運命が待っているのである」

 

生物の話だが、会社などの組織にも当てはまるような気がする。

 

「生物は現在のような多様性をいつ獲得したのであろうか。現在から6億~5億年前の先カンブリア時代最末期には、非常に多様な形態をもつ一群の生物が存在した」「エディアカラ生物群と呼ばれている」

 

エディアカラ生物群は「「全球凍結」と呼ばれる地球全体が凍結していた時代が終了したときに、顕著な気温上昇に伴って登場した」

 

「全球凍結」、はじめて知った。


「全地球が氷床で覆われている状態である」「その原因はまだ完全にわかっていないが、何らかの大気組成の変化や地殻活動により、地表や海面が氷床に覆われはじめたのではないかと説明されている」

 

氷河期とは違うのだろうか。「全球凍結」で「多数の生物が絶滅」したと。

エディアカラ生物群の絶滅後に有名な「カンブリア爆発(爆発的な生物種の増大)」が起こる。

 

2.「言語のパロール(話し言葉)とエクリチュール(書き言葉)」「生物学のパロールエクリチュール


作者は生物学者なのだが、人文系にも明るく、そのいわば知的越境行為が刺激的。
『自己変革するDNA』では、レヴィナスの思想にふれているが、本作ではデリダを取り上げている。

 

パロールエクリチュールという概念は、DNAなどの生命情報にも通じるものがある。生命情報も本質的には記号の羅列であり、言語と非常によく似た存在なのである」

 

「生命情報を担う物質の中で、RNAやタンパク質は細胞の中で必要なときだけ作りだされ、自ら特定の形をとって機能したりするなど、一定の時空間的な制約条件の下で決まった役割を果す。この意味で、RNAやタンパク質は「現前の存在的」で、パロールに近い存在といえる」

 

「これに対し、DNAに記された情報は、比較的変化に乏しく、時代を超えて継承される。また細胞が与えられた環境に応じて変化していくと考えられる。こう考えると、DNAは「生命のエクリチュール」とたとえられるのではないか」

 

3.デリダの「散種」とダーウィン進化の共通性

 

デリダが扱う「差異の戯れ」では、何かを狙ったように多元性が生じているのではなく、偶然かつ予見不可能な形で多元性が現れ、それが絶え間なく生まれ続ける」

 

「これはちょうど生命が進化する際に、偶発的に多様性が生じ、特定の環境下でもっとも生存・増殖に適した生物が淘汰され、進化し続けていくというダーウィン進化の考え方に近い」

 

「このようないわば決定可不能で繁殖可能(反復可能)な多元性を、デリダは「散種」と呼んだ」

 

デリダの言葉を借りれば、「散種は父に帰属しない=回帰しないものを表す」ということになる」

 

作者はデリダが生物学をヒントに独自の論考に辿り着いたと述べている。
これもまた、刺激的な知的越境行為だろう。


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いま、読んだほうが、もっとピンとくる

 

家の件で区役所の出張所へ住民票を取りに行くと誤申請だったらしい。
それから担当者の執拗な質問に閉口。
取り調べかよ、容疑者かよ。

 

んでもって、歯に不具合が生じて、あわてて久しぶりに歯科医院へ。
衰えは、歯、眼、マ〇からというが…(苦笑)。


『なぜ「話」は通じないのか―コミュニケーションの不自由論』仲正昌樹を読んだ。
おおっ、こりゃ、正真正銘のバカの壁だ。つーか、バカの人垣とでもいうのか。
目からウロコが何枚も落ちてしまって、もうお魚には戻れないわ・た・し。

 

講演でありきたりの質問やとってつけたような自分の知性の高さをひからかそうとするヤカラ、自己チュー、被害モーソー、揚げ足取り、ゲスの勘ぐり、アダルトチルドレン、そんなののオンパレードで、
(ここでうっかり筆を滑らせるとネタバレになるし、作者のように因縁をふっかけられても困るし)
懐かしのTV番組『クイズ100人に聞きました』じゃないけど、
ページをめくりつつ心中「ある!ある!」のリフレイン。

 

いやあエピゴーネンなのかフォニーなのか知らないが、
次々と現われる敵を小気味いいくらい論破して、クリア。次の面へと進む。

 

ほんとに講演会での質問とか止めりゃいい。時間のムダだよ。たいていは。

 

会議とかもそうだよ。昔の広告代理店の上司は、話をまとめるというか、ぶり返すというか、他人の意見のオウム返しで、まったく自分の意見というものがなかった。
そのくせ、しつこくて、話が長い。
スーパーマーケットの店頭デモのエンドレステープのようだった。


以下ぼくなりのメモ。

岸田秀がいう「幻想」を仲正は「物語」という。意味するものは、近似値。
ひとりひとりが自分の小さな物語をつくり、当然そこの主人公におさまり、まあ、虚構なんだけども、お山の大将になってそのタコツボから出てこようとはしない。分かり合おうなんてしない。

 

マルクスが幅を利かせていた頃は、テーゼ-アンチテーゼ、反証、反論、批判が盛んに試みられたが、サヨクが廃れると、今度は米国式のディベートが台頭してきたが、果たして反論に意味はあるのか。意味のある論旨の通った反論は、実際、少ない。時間のムダなんでまったく見なくなった『朝まで生TV』が、そのいい臨床例。

○知的な「叱り役」がいなくなって「思いつきのストーリーを論理的に練]り上げなくても」まかり通るようになってしまい、そんな院生、研究者が増殖するようになった。
ま、叱るとパワハラだの、アカハラとか言われかねないし。

 

○すぐに掲示板やWeb、ブログに「書き込む」な。書きたいこと、言いたいことは、一度、反芻せよ。別な角度から検証せよ。時には、その思索の試作を寝かせてみよ。

 

○ブログからプロデビューを夢見て、ついカゲキなことを捏造してPVを殖やそうとするが、そんなのはダメダメ。やはり思いつき垂れ流しのネットには厳しい見方をしている。素人ネットレビューにも。

 

○それと聴く力の減退。これがなければ、話は通じない。コミュニケーションというと、話す、伝えることばかりに重きが置かれてきた。その結果が、このザマ。他人の話に耳を傾けず、自分の物語を一方的に話す、あるいは書き込む。

 

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「論理は、あらゆる経験に先立だっている」

 

 

クリスマスイブの21時台の世田谷線はガラガラだった。
お家パーティでみんな早めに帰宅したのかな。

 

ウィトゲンシュタイン、最初の一歩』 中村昇著を読む。
心に残ったところを何点か。

 

2私は世界だ

「わたしたちは、はっと気づいたときには、かならず<私>というとても狭い部屋に閉じこめられています。そこから、その同じ<ワンルームマンション>にずっと住みつづけます」
ウィトゲンシュタインが言うように、「主体(私)は、世界の一部なのではない、そうではなく世界の境界」なのです。世界をつくりあげているのは、<私>という領域なのです」

 

ユクスキュルの提唱した「環世界」に重なるし、ネット民の島宇宙宮台真司のいう「タコツボ化」にも重なる。なぜかパフュームの『ワンルーム・ディスコ』を思い浮べた。

 

3論理

「論理は、あらゆる経験に先立だっている」とは。

「世界がなければ、そもそも経験はできない。その世界を論理が支えていると言います。(論理)という骨組みがあって、建物が存在しているからこそ、そのなかに入っていく(経験する)ことができるのです」

ウィトゲンシュタインの考える「論理」、世界の土台なんだ。


23疑うことと信じること

なぜウィトゲンシュタインデカルトの「方法的懐疑」(無理やり何でも疑おうというプロジェクト)を批判し、いかに論破したのか。

デカルトは錯覚という現象があるから、感覚は信用できない。確かではないと結論」づける。
ところがウィトゲンシュタインはこう反証する。
「確かな知覚をもとにして初めて錯覚という現象がでてくるのです」
同様に、夢もそうだと。

これも納得。断じて屁理屈なんかじゃない。

 

意外だったのは、ウィトゲンシュタインハイデガーに「共感」を抱いていたということ。師であるバートランド・ラッセルの論考にも批判的だったのに。
真逆の哲学者だと位置づけていたのだが。さらに同い年だったとは。

 

ハイデガーの主著である『存在と時間』の「存在」。

「「存在とは何か」という問いはまったく無意味だと言います。「すべてアプリオリにただ無意味(経験とは関係なく最初から無意味)」
なのです。」
ナンセンスと一刀両断。しかし、
「「われわれは、言語の限界に対して突進する衝動」をもっている。それが、絶対的に無意味だとわかっていても、そうせざるを得ない衝動をもっている」
人は感情で動くってこと。

 

ウィトゲンシュタインは哲学のジャーゴン、専門用語は排除しているというが、
ウィトゲンシュタインの哲学にも、独自の解釈による用語も出て来る。
たとえば言語ゲームとか。そのあたりを初心者向けに作者は平易に咀嚼している。

 

これまでウィトゲンシュタインの著作や解説書、入門書の類を読んではいたが、
はたしてどこまで理解していただろうか。
この本でまた新たな一面を知ることができた。

 

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読む、モロトフ・カクテル

 

 


『まぜるな危険』高野史緒著を読む。

作者の『カラマーゾフの妹』は、ドストエフスキーの未完に終わった
小説『カラマーゾフの兄弟』の勝手に続編。
奇抜な発想に感心したが、長篇に仕立てあげた作者の筆力にも感心した。

 

この本は同じ手法で書かれた短篇集。「ロシア文学+SFのリミックス」と表記されていて、各篇の巻頭に作者がネタ元をバラしている。

 

リミックス、パロディ、パスティーシュマッシュアップ、類語はいろいろあるが、
そこになぜかお笑いのトム・ブラウンの合体ネタも浮かび上がって来た。
要は面白いか、楽しめるか。で、ぼく的には堪能できた。
以下、各篇を手短に紹介。

 

『アントンと清姫
安珍清姫』をベースにした『アントンと清姫』という悲恋物。道成寺の鐘とかつてクレムリンでつくられた世界一の鐘とを結びつけた話。
ラトヴィアからの留学生オレグスが散歩する谷根千。『アントンと清姫』の真相は。プロレス好きなら『アントンとミツコ姫』というのもありか。

 

『百万本の薔薇』
加藤登紀子のカバーで有名な楽曲。グルジアにある広大なバラ園、「優性品種研究所」で立て続けに責任者が亡くなる。モスクワから調査に来たフィーリン。妖しいバラに魅せられた人々。

 

『小ねずみと童貞と復活した女』
屍者の帝国」+「白痴」+「アルジャーノンに花束を」+「ブレードランナー」が合体。昔、「アルジャーノンに花束を」のレビューをパスティーシュで平仮名でチャーリーになりきって書いたことを思いだした。SF同人誌二次創作作品風。

 

『プシホロギーチェスキー・テスト』
罪と罰」+「罪と罰」を下敷きにした乱歩の「心理試験(プシホロギーチェスキー・テスト)」が合体。ペテルブルクの古本屋台で60年後に刊行されたエドガワ・ランポの冊子を入手したラスコーリニコフ。他にもなぜか日本人作家の未来の作品の翻訳が。

 

桜の園のリディヤ』
桜の園」+佐々木淳子の漫画「リディア」の合体。漫画「リディア」は未読だが、「桜の園」は好きな戯曲なので世界が入って来た。桜の園が伐採された後日談的内容。

 

『ドグラートフ・マグラノフスキー』
ドグラ・マグラ」+「悪霊」の合体。初期ソローキンの作風から脂気を抜いた感じ。いちばん危険な作品。


モロトフ・カクテル
瓶の中にガソリンなど可燃性の液体を入れて布切れなど可燃性のもので栓をし、栓に火を点けて投げる簡易的な武器。火炎瓶。1939年、ソ連軍がフィンランドに侵攻(冬戦争)した際、資材不足のフィンランド軍は火炎瓶を対戦車兵器として使用した。
ソ連モロトフ外相が国際連盟で冬戦争でのフィンランドに対する無差別爆撃について追及された際、「資本家階級に搾取されているフィンランドの労働者への援助のためパンを投下した」と言い逃れたため、ソ連軍の収束焼夷弾は「モロトフのパン籠」と呼ばれた。それに対するお礼の特製カクテル」という皮肉の意を込め、火炎瓶が「モロトフ・カクテル」と呼ばれるようになった。
出典元:モロトフカクテル (もろとふかくてる)とは【ピクシブ百科事典】

 


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世界を肯定する哲学。つっても保坂和志じゃないよ、トマス・アクィナス

 

 


『世界は善に満ちている     トマス・アクィナス哲学講義』山本芳久著を読む。
哲学に関心のある学生と哲学者の対話で話が進む。

 

トマス・アクィナスって中世のスコラ哲学者?神学者?のエライ人ぐらいしか知らなかった。


「トマスの主著である『神学大全』は、日本語訳で全45巻もあります。―略―日本語訳全45巻のうちの第10巻が感情論の部分の翻訳になっています」

 

神学大全』は、とても読み切れないから、作者にその肝の部分を教えてもらおう。

 

「トマスの感情論の特徴は、「感情には明確な論理がある」と考えるところにあります。―略―とっかかりとして「希望」についてトマスが解説している部分を
見てみましょう」

 

感情と論理、換言するなら、パトスとロゴス。相容れないもののように思うのだが。

 

「「希望」の対象の第一条件―善であること」
「希望」の対象の第二条件―未来のものであること」
「希望」の対象の第三条件―獲得困難なものであること」
「希望」の対象の第四条件―獲得可能なものであること」

 

小見出しのみを引用。


「あとがき」からトマスの功績や役割を。

 

「トマスは、イエス・キリストの淵源するキリスト教の「神学」と、キリスト教が誕生するはるか前に古代ギリシアにおいて栄えた「哲学」―とりわけアリストテレスの哲学―とを深く結びつけ、統合することによって、「神学」においても「哲学」においても新しい地平を切り拓いた人物である」

 

「神学」と「哲学」を「統合」してしまうとは。

 

アリストテレスがラテン・キリスト教世界(今の西ヨーロッパ)に―略―大きな影響力を持つようになった、12世紀後半以降のことであった」
「12世紀半ばになると、イスラーム世界を経由して、ラテン・キリスト教世界にアリストテレスの著作群が流入してきた。そして、最初はアラビア語からラテン語に、次第にギリシア語の原点からラテン語に翻訳されていった」
「保守的なキリスト教神学者のなかには、キリスト教が誕生する前に活動した「異教徒」であるアリストテレスの著作などをキリスト教神学のうちに持ち込む
べきではないという見解も根強く存在した」

 

アリストテレスの哲学もまたイスラーム世界からのものだとは。

 

「「憎しみ」の根底には「愛」がある」

 

これもえっ?と思ってしまう。作者は哲学者にこう語らせている。

 

「自分の心が「憎しみ」一色で塗りつぶされそうになるとき、「憎しみ」という否定的な感情のみでなく、「愛」という肯定的な感情が心のうちに潜んでいることに気づけることは、少なくとも私にとっては大きな救いとなりました」

 

このようにトマスの哲学には「現代の心理療法」につながるものがあると。
「心には自己回復力がある」って「レジリエンス」のことではないか。

 

哲学者の発言を一部引用。

「「悲しみ」を真に悲しむことができれば、その自然な心の動き、それ自体のなかに、「悲しみ」が自ずと和らぎ癒されていくというはたらきが含まれている。人間の心には、このような自然な自己回復力が含まれているのです」

 

トマスの哲学は古びていない。それどころか新しい。

 

「言葉にはいろいろな種類があって、たとえば、新聞やテレビのニュースやSNSの言葉などは、新しい情報をすぐに伝えてくれるが、すぐに古びてしまう。―略―それに対して哲学の言葉というものは、すぐには役に立たないかもしれないが、少しずつ、持続的に大きな影響を及ぼしていく」

 

これは言えてる。哲学ばっかじゃないけど。文学や詩歌、クラシック音楽なども含まれるけど。

 

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難解キャンディーズ

 

『他者と死者 ラカンによるレヴィナス内田樹、読了。

読後感は、はじめて作者の著作を読んだときの感じに似ている。
「ためらいの倫理学」「レヴィナスと愛の現象学」を上梓されたあたりの。

 

節度がほどよく効いた明晰な文体で展開される論考。


ふだんWebで書き散らしている(いい意味で)エセーは、
時折、ユーモアなどのテクニークで読みやすくなっているが、
こちらはそのエッセンスというのか、原酒というのか。マジモード。

 

作者にとってレヴィナスは、「スター・ウォーズ」のヨーダ的存在。
師であり導師である。

 

ラカンレヴィナスは、あえてわかりにくく書いているという。
その2人に実に多くの「共通」している部分に気づかされ、
ものしたそうだ。

 

「『記号が、何ものをも意味しないでただそこにある』ということに機械は耐えることができない」「しかし、人間は何かを見たけれど、それが何かを『決定しない』ということができる」「その決定不能なものを前に、判断中止をしている『私』を維持すること、それこそすぐれて人間的な能力であり、それこそが人間の人間性を基礎づける、ラカンはそう考える」

 

フッサールが『現象学的判断中止(エポケー)』と名づけた操作は、平たく言えば無意味に耐えることである」

 

何やらほっとする、救われる思い。

 

ユダヤ人である「レヴィナスリトアニアに生まれ、フランスとドイツで哲学者としての修行を積み、フランスに帰化した」。第二次世界大戦中「捕虜」となるが、
ユダヤ人としてではなくフランス軍兵士として認定され、」「アウシュヴィッツ」から免れた数奇な運命を体験している。

 

レヴィナスが「フロイトの弟子」であったとは。

 

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きみは、ピエール・バルーを知らない

 

きみは、ピエール・バルーを知らない。
クロード・ルルーシュ監督の『男と女』で、
ギターを弾きながら『サンバ・サラヴァ』を歌っていた男だ。
いろんな映画があるけれど、『男と女』がいちばん好きな映画。

 

『サンバ・サラヴァ』の原曲は、
『サンバ・ダ・ベンサフォン』(祝福のサンバ)。
この曲にピエール・バルーが、フランス語の詩をつけた。
(なんてエラそうに言ってるけど『The BOSSA NOVA』の
ライナーノートからのパクリ)

 

彼は、インディーズ・レーベル、サラヴァを立ち上げ、
ブリジット・フォンテーヌをはじめとして
数々の魅力的なアルバムをリリースしてきた。

 

ブリジット・フォンテーヌ
アート・アンサンブル・オブ・シカゴの
コラボレーションによる『ラジオのように』のカッコ良さは、
ビョークのさきがけって言えばわかってもらえるだろうか。

 

きみは、ピエール・バルーを知らない。
『花粉』というアルバムは、ムーンライダーズなど
彼をリスペクトする日本のミュージシャンたちが
サポートしたものだが、
音楽純度の高いアルバムで、いまでもお気に入りの一枚。

 

北海道に行った時、カセットテープに彼の作品を入れて、
札幌から函館までの4時間、エンドレスで聴いていた。
流れていく北の夏の風景に、この上ないB.G.M.だった。
特急電車の車窓に、随分の数のサッポロ黒ラベルのカンが並んだ。

 

きみは、ピエール・バルーを知らない。
でも、ボサノヴァは好きだよね。
アントニオ・カルロス・ジョビンジョアン・ジルベルト
ナラ・レオン小野リサ…。

だったら、晴れた日の午後にでも、恋人か友達と、
屋上にデッキチェア、あるいは
おまけでもらったレジャーシートを
持ち込んで、このコンピレーションアルバムを聴いてみよう。

 

優しかったり、懐かしかったり(これがサウダージ)、
温かかったり、人間の声がする。
やたらシャウトしたり、
絵空事の革命を韻を踏みながら歌ってはいないけれど、
きっと自然に、染み込んでくる。
大の字になって、雲や青い空なんかを、見てみよう。
つっぱってる気持ちやトゲトゲしい気分が氷解していく。

 

きみは、ピエール・バルーを知る。
そして、『サラヴァ・フォー・カフェ・アプレミディ』が
たまらなく好きになる。

 

『サラヴァ・フォー・カフェ・アプレミディ』監修・選曲 橋本徹


www.youtube.com

 

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