読後感は、はじめて作者の著作を読んだときの感じに似ている。
「ためらいの倫理学」「レヴィナスと愛の現象学」を上梓されたあたりの。
節度がほどよく効いた明晰な文体で展開される論考。
ふだんWebで書き散らしている(いい意味で)エセーは、
時折、ユーモアなどのテクニークで読みやすくなっているが、
こちらはそのエッセンスというのか、原酒というのか。マジモード。
作者にとってレヴィナスは、「スター・ウォーズ」のヨーダ的存在。
師であり導師である。
ラカンとレヴィナスは、あえてわかりにくく書いているという。
その2人に実に多くの「共通」している部分に気づかされ、
ものしたそうだ。
「『記号が、何ものをも意味しないでただそこにある』ということに機械は耐えることができない」「しかし、人間は何かを見たけれど、それが何かを『決定しない』ということができる」「その決定不能なものを前に、判断中止をしている『私』を維持すること、それこそすぐれて人間的な能力であり、それこそが人間の人間性を基礎づける、ラカンはそう考える」
「フッサールが『現象学的判断中止(エポケー)』と名づけた操作は、平たく言えば無意味に耐えることである」
何やらほっとする、救われる思い。
ユダヤ人である「レヴィナスはリトアニアに生まれ、フランスとドイツで哲学者としての修行を積み、フランスに帰化した」。第二次世界大戦中「捕虜」となるが、
「ユダヤ人としてではなくフランス軍兵士として認定され、」「アウシュヴィッツ」から免れた数奇な運命を体験している。