ゆとりを奪う「ゆとり教育」って

 

 

『学力があぶない』大野晋、上野健爾著を読む。

 

子どもの通う区立小学校では、年に何回か授業公開日というのがある。昔でいうところの授業参観日だ。前回の公開日での、子どものクラスの授業は英語とパソコンで、英語はオーストラリア人の女性が会話をレクチャーする予定になっていた。

 

ところが、カゼを引いたとかでドタキャン。担任の先生が、ぶっつけ本番で英会話を教えることになった。にもかかわらず、英語の授業は楽しく微笑ましいものだった。で、後から父兄からクレイムがついたという。何でも日本人の先生が教えると、ネイティブの発音ではないとか。アホクサ…。

 

この本を読むと、英語は話すよりも書くことが大事だと述べている。eメールは英文だし、会話にそんなに時間をかけるよりも、書くという行為にもっと時間をかけるべきだと。同感。非英語圏の人の方が、英語でコミュニケーションを取る時は、英語圏の人よりもフレンドリーであると述べられているが、乏しい経験からも、そうだと言える。

 

でも、基本は、国語、日本語であると。数学だって、まず問いの文章読解力がなければ、答えにはたどりつけない。

 

第1章の「教育の原点をもとめて」では、引き出す教育の大切さを説いている。「どんな子でも何かあるから、才能が出てくるまで待とう、なんとかして引き出そうという」もので、「能力を引き出すためには詰め込みも強制も必要である」同感。

 

第2章の「「学力低下」とは何か」では、「ゆとり教育」が実施されてから、授業時間が減り、授業についていけない生徒が増加している。その結果、塾へ通う子が増える。本末転倒ではないだろうか。スローフードではないが、スロースタディとでも言えばいいのか、ゆっくり頭の中で反芻しながら知識は身についていくのだと思うのだが。ただし、基礎の修得には「詰め込みも強制も必要である」と述べているが、くどいように繰り返すのだが、これも、同感。

 

子どもの個性と自分勝手をどうもはき違えているような親が多いの件(くだり)には、反省、反省。

 

また、肝心要の教師も常にアップ・トゥ・デートな指導ができるようなバックアップ体制のいち早い整備を挙げている。

 

円周率は3、計算機を使って計算しても良いなど、2002年から導入される学習指導要領がいかに時代に逆行したものであるかが、知ることができる。確かに最近、子どもの宿題は減っているなあ。と、あわててドリルを買いに行くドロ縄的親。

 

子どもの教育について書かれた本作だが、新入社員を鍛えなければならない中間管理職の人にも、意外と、うってつけである。


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