「生きのびる政治学」は「教室」ばかりか、会社、業界、近所つきあいなどにも、使える

 

 


『教室を生きのびる政治学』岡田 憲治著を読む。この本が、ぼくの十代の頃にあったなら、随分助かったろう。救われたろう。

 

響いた文章の一部をランダムに引用していく。

 

「だれも立派な人にはなれません」

どういうことか。

「本当のことはわからない。だから間違える。間違い続ける。立派な人間になるのはとうてい無理だ。しかも「立派な人間は間違えない」と根拠もなく優等生洗脳がなされている。この「立派な人間」という呪いの言葉は、要警戒ワードだ」

事実、立派な人ってまわりに何人いるだろうか。

 

「友だちが100人も必要なワケがない」
なぜなら
「僕らはそんなにたくさんの人と友だちにはなれない」

最悪、一人もいなくても構わない。


「議論とは、最初から全員が偏っていることを前提にしている」
ここをわかっていると、話がまとまらなくても、気にならない。

「この世には中立などというエリアも立場もない。基準しだいでどうにでも変わる」
だからといって黒か白か的な単純な二項対立は、避けるべきだよね。

 

「多数決と民主主義は関係がない」

ともすると同じように思われる。小学校の学級会を思い出す。

「あくまでも多数決というのは、時間の制限の中で、「今、この時点での最大風速はどれくらいか?」を計測したものに過ぎないのであって、人間の考えや気持ちはまさに天気のように、あるいは別の事情で変わりうる」
なのに
「(多数決で)合意してないのに合意したことになってしまう」

「数の論理」が万能ではないことを知っておこう。

 

「空気ではなく言葉を読む」

「空気やキャラ演じではなく、言葉を行き交わせて議論することは、面倒でもやっぱりものすごく大切なことなのだ」
話さなければ、わからない。

 

「心など通じ合わなくても協力はできる」

この言い回し、政治っぽい。

「だからやるべきことは、ギクシャクするならするなりに、なんか重いなぁと思ったら重いなりに、ぜんぶをわかり合おうとすることでも、心から人間改造をすることでもない」

 

「民主主義は、失敗してまたやり直すことを前提にしたシステムである」

そういうことか。なのに、日本は一度失敗したら再起へのチャンスは難しい、いまだ。

「やり直すことは面倒だし、疲れるし、時にはアホくさいかもしれないが、決めたら止まらない正論や、基準は正邪だけで悪はぜんぶ排除、そんな強引なやり方されるよりも、ウジウジしながらダラダラ決めるほうが安全だったり、全体からして安心だったりするかもしれないのだ」

 

「生きのびる政治学」は「教室」ばかりか、会社、業界、近所つきあいなどにも、使える。


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