構造主義の奥の細道

 

 

『構造の奥  -レヴィ=ストロース論-』中沢 新一著を読む。

 

大昔、哲学科の学生だったとき、サルトルらの実存哲学に代わって新しい哲学・思想界のチャンプになっていたのが、レヴィ=ストロースらの構造主義だった。『悲しき熱帯』あたりを読んだはずだが。で、文化人類学に興味を抱いた。

 

この本では、温故知新ではないが、「レヴィ=ストロース構造主義」の再考・再評価を試みている。

 

「「生まれながらの仏教徒」としてのレヴィ=ストロースは、まずは青年前期における熱烈な「ルソー主義者」の姿をとってあらわれた。彼はルソーの中に、しばらく後に発見することになる仏教やマルクス主義の底に沈んでいるものと同根の思想を見出し、心を燃え立たせたのであった」

当該箇所引用。

マルクス主義は物質的な条件の中に、解放の道を探ろうとする思想である」

「仏教は人間の精神的現実の中に、いっそう高い次元での開放を実現しようとしてきた」

 

構造主義と仏教思想には「共通の「主題」が内包されている」
それは「二元論の超克」だと。

レヴィ=ストロース構造主義は、主体と客体、精神と身体のような二元対立によって思考する傾向の強い西欧の伝統を否定して、二元論からの脱却を重要な主題としてきた。それをおこなうために構造主義は、新石器的ないわゆる「未開社会」を研究対象としてきたのであるが、そこでは二元論的な思考がほとんど意味を持っていなかった。そのため、先住民社会の文化を分析する構造分析は、自ずから非二元論的な思考をそこに発見することになったのである」

 

デカルト心身二元論とか。

 

「仏教の非二元論でも同じように、二つの極端を退けることによって「中道」という実存が現われてくる。どちらの思考でも、現実を一つないし二つの極端な概念で理解するのではなく、そのどちらの視点から、世界の真実を見ようとするのである」

 

いま、さまざまなシーンで起きている二項対立による分断への対処にも有効な気がする。AかBか。ではなくてAでもない、Bでもない。良い意味での「玉虫色の解決」。

 

レヴィ=ストロースが「江戸時代の禅僧にして画家の仙厓義梵について」エッセイを書いていると。個人的に仙厓義梵の絵が好きなんでびっくりした。

「禅では諧謔精神を発揮して、事物を上品なものと粗野なもの、高級とされるものと下品なものを区別して、上下の価値判断を与える常識に挑戦して、価値の転倒や区別の無化が実践される。この諧謔精神は神話においても重要な役割を演じる。神話の主人公たちはしばしば、常識的な価値の秩序を無視して、世間の価値づけでは醜いもの、劣ったもの、汚いものに進んで触れていくことによって、状況に重大な変換をもたらすのだ」


以下、短く。

〇『マルクス主義構造主義』の著者であるリュシアン・セバーク。教え子の中で、将来を嘱望されていたが、早逝する。あまりにも悲しい最期。

〇マルセル・モースの『贈与論』。
「与え、受け取り、お返しする、という贈与を構成する3つの義務の中で、もっとも重要なのは、お返しすること、言い換えれば「受け取った贈り物の返報を強制する」義務である」

 

彼の代表的な著作『野生の思考』の「野生」は、ルソーの言う「自然に帰れ」の「自然」とつながっているのだと認識を新たにした。

 

仙厓 義梵(せんがい ぎぼん) しりあがり寿じゃないよ

 

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