ケア、文学、女性、男性

ケアする惑星

『ケアする惑星』小川公代著を読む。

 

ケアという切り口で数々の文学を捌きながら、長年そのケアを担ってきた女性、違うな、男性によって担わざるを得なかったこと、フェミニズムとケアを見つめ、さらにいまそしてこれからのケアについて俯瞰させてくれる。以下、ヴァージニア・ウルフオスカー・ワイルドルイス・キャロルにしぼってつらつらと。

 

ヴァージニア・ウルフとケア

 

ウルフの「意識の流れ」は、フロイトの無意識の影響を受けたものであることを再確認。ただし、フロイトのマチズモっぽさは、NGだった。

 

「ギリガン*も、フロイトの「エディプス・コンプレックス」におけるジェンダーの非対称性を批判しているが、ウルフもまた彼が前提とした「男らしい」自己像に対して強い警戒心を持っていたことだろう。彼女自身が受けた性被害がトラウマとなり、とりわけ負の「男らしさ」への嫌悪や恐怖は誰よりも強かったからだ」

 

「男らしさ」。小声で言うが、これに苦しめられている男性も少なくないだろう。ま、女性の比ではないが。

 

「ギリガンも、男性が成長過程で身につける「超自我」を女性が獲得するのは困難であると考えたフロイトを批判している。女性には「明快なエディプス解消への起動力」が備わっておらず、不完全であると女性性の価値を貶めるフロイトのモデル自体をギリガンは評価しない。そして、それはウルフが目指したものでもなかった。ギリガンもウルフもこの「個」で完結されない不完全さ、「他人の価値観や意見への追随」を「女性の強み」として再評価した。ウルフは、フロイト超自我に基づく「正義感」のみならず、彼女の周りにいた男性たちから、同様の「男らしさ」を嗅ぎ取っていたのかもしれない」

ある意味、女性こそ多孔質でしなやかさを有している。一方、男性は一定方向には強靭性があるが、意外な脆さもあるということなのだろうか。

このあたりを踏まえて作品を読み直せば、もやもやが少しは解消できるかもしれない。


*キャロル・ギリガン フェミニスト倫理学者・心理学者

 

オスカー・ワイルドとケア

 

「いつの時代も、女性が自分の力で生きていくためには、500ポンドと自分ひとりの部屋が必要だといったのもウルフであるが、彼女が『自分ひとりの部屋』という本を世に送り出す以前に、女性が持ちうる「自分ひとりの部屋」について書いたのは、19世紀末の作家オスカー・ワイルドだった」

 

「彼は「新しい女」、すなわち時代の規範に従う女性ではなく、公共圏でも役割を担うような、ジェンダー規範を脱する女性たちの仕事を支援した」

 

オスカー・ワイルドの作品でたぶん良く知られている『幸福な王子』も、ケア、公助、最たるものの話だよね。タイトルも『公福な王子』にすればいいかも。


ルイス・キャロルとケア


不思議の国のアリス』をケアで読み解くと。

 

「『不思議の国のアリス』が書かれたのは、ダーウィンの進化論や「適者生存」の考え方が世間を騒がせていた時代でもある。ヴィクトリア時代の現実を生きる人々は、生活を破綻させずに生き延びるための競争に勝ち続けなければならないという苦しみがあった」

 

その風潮にキャロルは批判的だった。ダメなものは淘汰されるというケアと真逆の優性思想の萌芽期でもあった。

 

「一般的に“成熟”といえば、精神的にも経済的にも自立する人間のことを指すが、キャロルにとっての成熟とはケア精神を備えた、あるいは権威を振りかざさない人間のことを意味する。すなわち『不思議の国のアリス』が成し遂げた一つの大きな成果は、“成熟”という言葉を脱構築したことにある」

 

作者はピーターパン症候群の先駆けかと思った。要するに、大人になりたくない、子どものままでいたいと。正しくは、大人の男性になりたくないんだと。男らしい大人の男性になることの拒否だと。

 

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