哲学というレンズで「言葉とコミュニケーション」にズームイン

 

 

『言葉の展望台』三木那由他著を読む。

 

まず、常套句を。ひとは、何らかのコミュニケーション無しでは生きていけないという。自分の気持ちや考えを他者に伝える、伝え合う。それがコミュニケーションで、そのために言葉を使う。しかし、この言葉ってヤツが厄介というかくせ者というか。同じ言語だって100パーなんて伝わらない。まして、異なる言語の場合は。

 

いまどきの人は歩きスマホやながらスマホsns経由で24時間コミュニケーションすることに躍起になっている。さぞかし、コミュニケーション上手なのかと思ったら、何だか苦手の裏返しのようらしい。

 

コミュニケーション能力って、ともするとスキル、テクニック、術の類に包含されがち。この本は「言葉とコミュニケーション」に対して哲学なアプローチを試みている。

作者曰く

「哲学というのは単なる現実離れした抽象的な思考ではなく、現実をさまざまな角度で、あるいはさまざまな解像度で見るためのレンズのようなものだと」

 

たぶん言えてる。ぼく的にはX線のようなものだと。思考や事象の骨組みを診るってことかな。

ただし

「そのレンズを通して見た風景だけが「絶対に正しい本当の風景」だとはまったく思っていません」

風景に正しいも、本当もないのだが、泰西名画などで絶対的風景を刷り込まれている気がする。

以下適宜引用。

 

「言葉は、従わざるを得ないルールや法則ではないが、「ここから大きく逸脱することはできない」というような枠を与えはする。いや、「枠」というより「引力」と言っていいかもしれない」

言葉の磁場。言葉のブラックホールや言葉の墓場にも遭遇したりすることもあるが。言霊とも言うしね。

 

「コミュニケーションはコミュニティを背景になされる。だからちょっとした発言に、発言者がどのようなコミュニティに属し、どのようなコミュニティに属していないのか、あるいは発言者と同じコミュニティに属して、いまコミュニケーションが試みられている受け手とは具体的に何者であり、誰がそこから追い出されているのか、ということがときに透けて見える」

氏・素性、マーケティング用語でいう属性などが言葉でわかってしまう。「お里が知れる」は、死語か。

「「セクシャル・ハラスメント」のような言葉も、それが指し示すはずの社会構造上の格差の存在を否認する人々からは、けっきょく単なる心理的な嫌悪感の表明のための言葉とみなされ、そして少なくとも一部のコミュニティにおいてはそちらの用法が広められ、無力化させられているように見える」

いろんなハラスメントがあって当事者や関係者は苦しんでいるのに、他人事のように受け止めている。明日は、わが身なのかもしれないのに。

 

コミュニケーション上手=「会話の引き出しの多い人」という定説について。

「会話を通じて仲良くなっていくためには豊かな引き出しが必要だというしばしば目にする考え方は、会話をあまりにも単なる情報伝達と捉えすぎているのではないか、とは思う。―略―会話というのは単なる情報の交換ではなく、人間の交流なのだ」

何回か、いやいや出たことがあるが「異種交流会」の虚しさ。

 

LGBT、マンスプレイニングなど話題になっているが、個人的によくわからない言葉の解釈も参考になる。


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