顔は文脈(コンテクスト)である。 

 

文脈病―ラカン・ベイトソン・マトゥラーナ

文脈病―ラカン・ベイトソン・マトゥラーナ

  • 作者:斎藤 環
  • 発売日: 2001/02/01
  • メディア: 単行本
 

 今日は子どもの誕生日。一人暮らしで在宅勤務中。

うちでのお祝い会は、なし。不要不急ってことかな。
プレゼントは送ったし、一応。

『文脈病 ラカンベイトソンマトゥラーナ』 斎藤 環著を読む。

レビューでの禁忌を犯すならば、おもしろかった、予想以上に。と、一行で済んでしまう。
 
本書は第1部の「文脈の分析」と第2部の「文脈の生成」からなっている。
いきなり冒頭で「世界を顔のように認識すること。より正確には、認識に似た経験を試みること。これが本性で(あるいは本書全体で)私が企画したすべてである」と述べている。 そして「顔の哲学を最初に深く基礎づけたものとして」レヴィナスによる「顔論」を展開する。
 

「人物の名を語ること、それは顔を表現することである」 (レヴィナス

 

次に、D-G(ドゥルーズ=ガタリ)へ。

シニフィアンは顔によって可能となる」(D-G)

 

ムズイでしょ。でも、こう言えばわかるかも。何カ月か前、教育TVで人形作家四谷シモンが人形づくりについて語っていたが、「人形は顔がすべて。顔さえ良くできたらあとはどうでもいい」といったような発言をしていた。人間だって、合致するのではないだろうか。

精神科医である作者はそれを「言語の顔」と述べている。つまり「顔」は文脈(コンテクスト)なのであると。
 
また「顔と名前が一致しない」という言い方や意味するものに対して、コンピュータグラフィックス、モンタージュによる三億円事件の犯人の手配写真、能條純一谷口ジローの漫画などを題材にして解釈している。
 
宮崎駿のアニメにも言及しているが、「多くの誤解にさらされている」宮崎アニメを実に鋭い観点から分析している。さらに、相原コージ根本敬榎本俊二古谷実となんと大島弓子を同じ診察台に並べて、「妄想」への文脈性を訥々と述べている。
 
吉田戦車には「分裂病的集大成である『伝染るんです』」は「(不条理)『文学』をやすやすと凌駕している」と絶賛している(まあ、このあたりは凡庸に思えるのだが)。
 
作者述べるところの「臨床的な視点から作品を記述」したサブカルャー的楽しさに満ちた第1部から第2部に入ると、かなり難易度が高くなる。
 
ベイトソンのコミュニケーションの定義に基づけば、

「生物種としての人間はコミュニケートしあうことが出来るが、個人としての人間には『コミュニケーション』は不可能である」

 と。ここでラカンのかの「女は存在しない」「性関係は存在しない」というお言葉を引きながら

 

ラカンにとってコミュニケーションは、本来的に隠蔽と抑圧の対象でしかありえない」

と結んでいる。

 
前述のベイトソンの後継者的存在が「南米チリの神経生理学者マトゥラーナ」であり、
彼とその弟子ヴァレラが構築した、「第三世代のオートポイエーシス(自己創出)理論」を核に第2部は展開している。
 
オートポイエーシスとは、生命システムのメカニズムで、マトゥラーナらは「カエルの神経システム」をモデルにした。

「(第三世代の)オートポイエーシスシステムとしての神経システムは4つの特徴を持っている。(1)自律性(2)個体性(3)境界の自己決定(4)入力も出力もない」

 

「『コンテクスト』は、自己言及的な自己生成の作動を通じてあたかも一個の細胞のように充実した実体性のもとに生み出される」

 

作者が提唱している「臨床の知」とは「理論と臨床の往還によって疲労せず、むしろ活性化される思考を意味」しており、それには「オートポイエーシスの論理」は不可欠のものであると。
 
コンセプチャルなCDアルバムというよりは、CDシングルを集めたような本だから、
作者も書いているように、興味のありそうなところだけを拾い読みしてもいいだろう。
 
(消えたブログからの再録)