『説教したがる男たち』 レベッカ・ソルニット著 ハーン小路恭子訳を読む。
タイトルがキャッチ―で内容は男性であるぼくにとっては耳が痛くなったり、恥ずかしたくなったり。とかく男性は女性に対してマウンティングを取りがち。
で、上から目線で説教をたれたりする。マンスプレイニングというらしいのだが、この行為は同性に対してもとるよな。年下だったり、後輩だったり、新人だったり。
まずは論より証拠。男どものゲスなデータをいろいろあげている。
「ここ合衆国では報告されているだけでも6.2分間に1度レイプが起き、5人にひとりの女性がレイプされた経験を持つ」
「米軍内では2010年だけでも1万9千件もの同僚の兵士を標的にした性的暴行事件があり、大多数の加害者は処罰を免れている」
「家庭ではどうだろうか。あまりに多くの男がパートナーや元パートナーを殺害しており、その手の殺人事件は1年に優に千件を超える」
「この種の犯罪について、それがいかにありふれたものであるかについて語るならば―略―男性性についても、男性の役割についても、おそらく家父長制についても語らなければならないはずだが、なぜかそういう話にはならない」
当時の名門大学のキャンパスでもレイプは起きていたと述べている。
作者はアナ・テレサ・フェルナンデスの絵を取りあげながら
「女は存在しながら消し忘れられている」
と述べている。
家父長制すなわち男性優位社会では、
「兄弟たちは存在するのに、彼女は存在しない。母親も存在しなかった。父の母も、母の父も、祖母などというものはひとりもいない」
「ブラックストーンが1765年に説明した英国の法にも類似している」
と。
「結婚によって―略―夫の庇護のもと、覆われるようにして守られた状態で、妻はあらゆることを執り行う。それゆえ我々が使う法律用のフランス語では、既婚女性を「覆われた女性(ファム・コペール)」と呼ぶ」
イヴァン・イリイチは妻が行う家事・育児などを「シャドウ・ワーク」と評していたが。
女性の存在を認め、男性から覆われたベールを脱ぎ捨てることがフェミニズムであるならば、その先達の一人がヴァージニア・ウルフである。
70歳のスーザン・ソンタグとの出会いのシーンが印象深い。相撲で例えるならば(なぜ?ウルフつながり)横綱千代の富士と貴乃花の初取組みのといった感じ。
偉大なパイセンと若き後継者。火花バチバチ。
「ソンタグがウルフを相手に議論するのを読んでいて、自分がソンタグと議論しているような気持になった。実際ソンタグと初めて会ったとき、私は闇について彼女と論じあい、しかも驚くべきことに負けてはいなかったのだ」
「闇」とは、このウルフの一文。
「未来は暗い。思うにそれが、未来にとって最良の形なのだ」
著者はウルフをこう評している。
「ウルフはテクストを、想像力を、フィクションの登場人物を解放し、同じような自由を私たち読者」、とりわけ女性読者に与えてくれる。―略―彼女が求めた女性の解放は、公的でも制度的でも理性的でもない。大事なのは見慣れたもの、安全なもの、既知のものを超えて、もっと広い世界へ到達することだ。彼女が求めた女性の解放は、単に制度の中で男性がしていたことを女性もできるようになる(いまでは実際そうなっているが)だけでなく、女性が地理的にも想像の中でも、真に自由に動き回れるようになることでもあった」
ウルフ曰く
「家庭の天使を私は殺したのです」
作者のヴァージニア・ウルフへの評価が、ぼくにはわかりやすかった。この視点からウルフの特に代表的な長篇小説への再読にトライしてみよう。
もやもやがある程度晴れるかもしれない。
最後に著者の素晴らしい文章を引用して結びとする。
「ウルフは私たちに果てしなさを与えてくれた。掴むことができないのに、抱きしめようとせずにはいられないような、水のように流れ、欲望のように泊まることのない果てしなさを。道に迷うためのコンパスを」