「social」は「社会」と訳されるが

 

社会 (思考のフロンティア 第II期)

社会 (思考のフロンティア 第II期)

 

 

「social」と「社会」、日本語訳のズレやブレ

みんな大好きなSNSソーシャルネットワーキングサービス(Social Networking Service)の略だけど、ソーシャルって「社会」のことだよね。それは知っている。ソーシャルディスタンスってのもあるけど。その先、奥が知りたくて『社会』市野川容孝著を読む。難しいんで、というよりも、考えが拡散しているんで、ほんのさわりだけ。

 

「“social”“sozial”という言葉が、「社会的」という日本語に置換されるとき、そこで何かが欠落するのだが、そのこと自体は気づかれず、さらに、この翻訳語が慣れ親しまれ、見知られたものになっていけばいくほど、このずれと屈折は一層、見えにくくなっていく」

 

『ニッポンの小説』高橋源一郎著でも欧米から輸入された小説をニホン向けに加工貿易することが、果たして適切だったのか否かと同じような視点から捉えられている。偶然なんだけど。しかし、日本人が日本語で自分の伝えたいことがきちんと伝わるかというと、そんなことはなくて。ましてや存在しなかった翻訳語を、考案してはめこむことは、そりゃモレ・ムリ・ずれも当然至極。

この本で作者は、ルソー、デュルケームニーチェマルクスらの言説を取り上げ、
“social”“sozial”という言葉の本来意味していたもの、概念を丹念に洗い出す。

「社会」という言葉は時代遅れになったのか「社会」という言葉が凋落してその代わりに、対立軸として「リベラリズム」「ネオリベ」「正義」そして「社会」の代替として「公共」「厚生」「福祉」という言葉が赤丸急上昇してきたのはなぜなのか。作者はこう記述している。

「(それは-筆者註)この「社会」を「社会主義」や「マルクス-レーニン主義」と等置してきた当の人びとが、それらの瓦解を目の当たりにしながらも、それらの何をどう否定し、批判すべきかをきちんと言葉にする作業を、不快であるがゆえに自分で避けてきた、あるいは不快と思う人によって妨げられてきたからではなかろうか」

かつての「社会」、社会党の「社会」と、「公共」や「福祉」とはイコールなのだろうか。ここらへんがぼく自身、不明なところ。今後の課題だな。

たぶん小さな政府を標榜し、原則自由競争の「リベラリズム」に対抗するのが、本来の“social”であったのではないかと作者は述べている。ネジれた双子のような現在の日本の二大政党では、対立軸が見出せず、あるとしても見えにくい。

 

「社長と愛人と海外旅行に行かせるためにオレらは働いてるんじゃない」

 

「資本主義は、往々にして「私有」の拡大と見なされるが、マルクスによれば、事態は全く逆である。そうではなく、資本主義こそが「私有」をますます不可能にし、生産様式をより「社会化」していくのである。しかし、それ以上に重要なのは、「私有」と「個人的所有」の区別である。マルクスもまた、ルソーが(自然状態から脱して)「平等」という理念を立ち上げるために承認した「私的所有」を否定しているわけではない。そうでなく、これを、各人が孤立した状態で手にする「私有」と、社会的な(個人では完結しない)生産過程ならびに生産された富の再分配を土台とした「個人的所有」に切り分けた上で、前者を否定し、後者を肯定しているのである」

 

バブルの前後、かつて知り合いの社長が愛人を囲っていて、仕事は部下にまかせっきりで、遊興三昧という光景に出くわしたことがある。あるとき、若い社員が、ぼそっと
「愛人と海外旅行に行かせるためにオレらは働いてるんじゃない」って言ったことを思い出した。


富の再分配 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

「社会的なものの概念を支える平等/不平等というコードは、この「比較」に帰属する。このコードは、私にも所有されるべきものものが、あなただけのものになっている、あなたにも所有されるべきものが、私だけのものになっているという占有を批判的に、とらえなおさせるが、同時に人は、このコードとともに、他人から「侮辱」を感得し、他人に「憎悪」や「復讐」を向け始める。さらに「嫉妬」や「羨望」が、ここに加わるだろう。平等への意志が、嫉妬、羨望、憎悪、復讐という暗い情念を誘発しかねないということ。」
「平等の裏にルソーが見出すこれらの暗い情念を、F.W.ニーチェは「ルサンチマン」と呼んだ」

持つもの、持たざるもの

 

これは先だってTVで都知事選に関しての有権者インタビューがあり、巣鴨のお年寄りにどんなことを期待するかと尋ねたら、要するに老人医療費を安くしろだの、そういう近視眼的なことしかいわないようで、なんだかムカついてきた。福祉っていうと高齢者のためのものというイメージがあるけれど、たとえばシングルマザーや正規雇用につけず貧困に苦しんでいる若者たちなど、むしろこれからはそっちの方だろと思う。この非対称が「戦争がはじまればいい」という気分にさせるのではないだろうか。単なる世代間抗争とは思わないけども。だって有史以来人間は年下に対して「いまどきの若いもんは」って言い続けているわけだし。

 

先日NHKスペシャル激流中国 富人と農民工 」を見た。中国は、すんげえ格差社会になっている。それは文字で知っていたけど、こうやって改めて映像で見せられると驚いてしまう。中国の農村部じゃいい現金収入になるものがなくて、農民たちは都会へ出稼ぎに行く。ここらあたりはかつての農閑期の東北地方からの出稼ぎ、季節労働者とイメージが重なるのだが、一方リッチ層は金のニオイをぷんぷんさせている。

 

しつこいけど、『社会』市野川容孝著からの引用。ドンピシャなもので。

「「社会的」という言葉は、常に二重の意味をもっており、それは平等へと向かう実践であると同時に、その出発点ともなる不平等、しかも自然がではなく、人間自身が生み出す不平等の確認を私たちに迫る。「社会的殺人」というエンゲルスの言葉に象徴されるように、それは悲痛な言葉でもある。あるいは、松澤兼人が自分に言い聞かせたように、社会的という言葉は、人間が、たとえば「階級」という形で互いに引き裂かれているという事実へと、あるいはそうであるとの認識へと、私たちを覚醒させてしまうがゆえに、封じ込められなければならない」

金持ちは資産を拡大再生産して、さらに金太りしていく。ビンボー人は負の遺産を拡大再生産、借金まみれになる。共産主義国家でありながら、自由経済を標榜している中国って、やはりものすごいねじれ現象になっているのでは。しかし、ビンボーから脱却するために、親や大人の親族は総出で働き、子どもの学費を捻出する。子どもは懸命に勉強してステップアップを志す。格差なんて嘆いている暇もなく。


「格差解消」ってのはやっぱりウソくさい。しかし、成り上がろうと努力する者に対しては、そういう機会を平等に与えてくれる、それぐらいはなんとか融通を利かせてもらいたいと願う。

 

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