毒舌漫談を聞くように

女ぎらい――ニッポンのミソジニー

女ぎらい――ニッポンのミソジニー


昨晩の地震、どうでした。
猫はまた腰を抜かしたしそうな。


『女ぎらい ニッポンのミソジニー上野千鶴子著を読む。
毒舌漫談を聞くように読む。不謹慎か。
ミソジニー」とは何か。作者は「女性蔑視」と言う。
これが浴室でほったらかしにしておいて、すっかり黒くなったカビよりも
根が深い。カビキラーやドメストのTVCMなら、根こそぎ、とれるようだが、
ミソジニーはとれない。


「男にとっては「女性蔑視」、女にとっては「自己嫌悪」。
−略−これまでの一生で男のうちで「女でなくてよかった」と
胸をなでおろさなかった者はいるだろうか。
女のうちで、「女に生まれてソンをした」と一度でも思わなかった者は
いるだろうか」

と、書かないとフェミニズムのロジックは成立しないのだが、
男であるぼくは、いつからか男はソンだと思うようになった。
ソンだというよりも女がうらやましい。か、正しくは。


作者は、このミソジニーの蔓延具合を具体的に述べていく。
以下気になった、タメになったところをランダムに書いていく。

「女を得たければ、まず男のあいだの覇権ゲームの勝者になるほうが早い。
ヒーローには女が群がってくる」

作者はホリエモンを引き合いにしているが、
漫画なら『島耕作』がティピカルだ。秋葉原事件を題材に」

「彼女がいる」ということは、「「女をひとり所有する」状態」で
−略−「オレは男」だとみなされる。

勝ち犬だと。だから「非モテ」であることは、男として存在価値がない。
そう思うようだ。
「クルマがないから女にモテない」「金がないから女にモテない」
確かにそんな話を耳にしたが、賛同はできなかった。


「少子化が進行してから、娘は「女の顔をした」息子となった」

こういうフレーズがほんとに作者はうまい。
だから大学進学もさせてくれる。男女雇用機会均等法の施行で
仕事もタテ前上は平等で、ぼくがこれまで仕事でお付き合いのある人を
見てみると、女性の方がいまは優秀かもしれない。

「女にはふたつの価値がある。自分で獲得した価値と、他人(つまり男)によって与えられる価値だ」

この分岐が、運命の分かれ道なのだろう。

「女子高文化とミソジニー」の章が、いちばん、ひかれた。

「学業偏差値と女性性偏差値と女ウケ偏差値との関係は、ねじれている。
女だけの世界は、これら複数の尺度によって分断されている。
だからこそ、一元的な価値尺度で測れるようなホモソーシャルな集団を、
女だけの世界は男のようにはつくらないし、つくれないのだ」

男にウケる女と女にウケる女は違う。
これは女芸人のようにアンビバレントな世界だと思う。
めんどくせーと思う女子は、ブログやツィッターにホンネをログして
教室じゃ死んだふりでもしているのだろう。
一方男は「一元的な価値尺度で測れるようなホモソーシャルな集団」って、
平たく言えば週刊「少年ジャンプ」のマンガのテーマ「友情・努力・勝利」だよな。
世代を越えてのテーマじゃないだろうか。


ネグレクトも過干渉も同床だとしたら、娘が母から独立するには、

「このための処方箋は、信田(さよ子−付記ソネ)が言うように、「わたしはあなたではない」と、母もそして娘も、互いに相手に向かって告げることからしか始まらない」

独立宣言。


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