リアルじゃない方がリアル

ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち

ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち

弱い雨のはずだったのに、自転車で出かけたら
パンツの中までビショ濡れだ(byB.V.D)。


『ケータイ小説的。』速水健朗著を読む。
この手の本を何冊か読んだけど、最も腑に落ちた一冊。
ケータイ小説がなぜあのような文体、ストーリーで誕生したのか。
ケータイ電話の狭小ディスプレイだからなのかな思っていたが、
作者は、郊外少女や地方少女は、叙情や描写が苦手。嫌いだとか。
というよりも、自分とつながっている関係だけがすべて(カラー)で、
あとは、物象化された世界(モノクロ)だと。


その事例として松任谷(厳密には荒井)由実と浜崎あゆみの詞を
比較対照している。
本来、作品のリアリティは、具体的、具象的であればあるほど、
よいと思われてきた。
たとえば、TシャツではなくヘインズのTシャツとか。
そのために言葉は饒舌を旨としていた。
ところが、ケータイ小説を読む少女たちには、
真逆の抽象的、ある意味、観念的、ただし短文ですむ。
そちらの方が理解できると。
その最たるものが、相田みつをとは。
ケータイ小説の−文学プロパーの人には荒唐無稽と思われる−
ストーリーの方が、リアルだと。なるほどね。
従来の文学が感化、感動、あるいは啓蒙などの役割、働きがあったけど、
ケータイ小説は、ひたすら共感。
というのか、少女たちのモウソウの延長線上にあるもの。
それがリアルなのだと。


都会じゃなくて地方、地元。その日常生活での恋愛。
都会でひと旗あげたるという上昇志向はなく、
都会への過度なあこがれもなく、
血縁・地縁の濃い地域社会での恋愛。
生家の便所には、相田みつをのカレンダーがかけてある。
作者いわく「被差別文化」の一環としてあったケータイ文学。
R&Bがオーバーグランドしていったのと同様に
ケータイ文学に陽が当たった。
しかし、そうなってしまうと、もはやケータイ小説も
少女たちには、過去のものとなった。
チャパツがオバサンにまで流行ると、
なんかダサクなるのとおんなじで。そんな新聞記事を読んだけど、
実際のところはどうなのだろう。


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