似非のエセー

昨日のエントリーの続き

河本英夫の『システム現象学』の中の「認知運動療法」に関する記述から。

治療を行うためには、方法は可能な限り経験科学化したほうがよい。
だがいったいこのような現場での治療法に、特定の方法というものを設定できるのだろうか。

ここで作者はペルフェッティの述べているポパーの「反証主義」をこう解釈している。


ポパーの方法論とは、−略−理論仮説を提起して、それを吟味するさい、
反証という方向で吟味を加えるものである。仮説の正しさを検証するのではなく、
仮説の限界を示すような反例や疑問を見いだし、
そこからさらに斬新な新たな仮説を定期していく


「初期のポパーであれば、吟味の効かないような理論仮説は、似非科学だとしていた。
そしてその典型例が、精神分析と進化論だとされていた」そこに「リハビリ」も
ポパーが生きていれば似非科学だと言うと思われる」


どおりで心理学科は文学部にあるんだなと、ヘンなところから納得。
進化論もポパーから見れば、反証が成立しないので似非なんだろうな。
でも、似非の部分から、似非と思われているところを再検証してみなければ、
ブレークスルーにはたどり着けないし、袋小路からは抜け出ることはできない。

治療講行為は、しばしばマンネリになり、停滞する。
そのときしばしば、「毎日地道に努力してください」というような言葉が
出てしまうことがある。これではただの人生論であって、経験科学的な態度ではない。
つまりこうした言葉が出てしまうときには、セラピストは、工夫のための方法を
もち合わせていないのである

ヒューマニズム的な見地じゃなくて、
経験科学的視野から具体的な助言をしろということだと思う。
これまた、いろんなことに共通していえてしまう。先生、医師、ヘルパー、議員…。
うまくまとめられないので、長々と引用してみた。


「正論なんだけど、それじゃ、人は動かないよ」ってよくいわれるが、
正論や理屈をもっと「吟味」しなきゃ、めんどくさがらずに。
もちろん、それは、話のうまい・へた、面白い・面白くないなどに流されることなく。


と、書いてから、論理や意見はズラしてしまえばいいという脱構築的な考えに賛成表明していた(る)自分、
なんか矛盾してないか。

録画しておいた『デスノート』を見る。
デスノート』がほしいのは、子どもよりもパワハラに遭っている親の方だったりして。
主人公が藤原竜也でいいのかと素朴な疑問。


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