活字の森から遺伝子の森へ

午前中、週末仕事の原稿を送ってから、
午後、銀座のITOYAで開かれている松本里美さんの「銅版画展」 を見に行く。
ITOYAに入るのも久しぶりだし、彼女に会うのもしばらくぶり。
続けることはなかなかできないが、定期的に個展を開いて
作品も内奥するものがいいあんばいで表現されていた。
リズミカルな線は、ミュージシャンもしているからなのだろう。


昼間の地下鉄の車内はなんで暑いんだろう。
脱いでも脱いでもまだ暑い。


長谷川眞理子の『進化生物学への道』を読む。
いうなれば、私を行動生態学、進化生物学に導いた本たちとの出会いを綴ったもの。
幼少のみぎりの「図鑑と『ドリトル先生』」からはじまって、
ダーウィンの著作、ローレンツの『ソロモンの指輪』、グートルの『森の隣人』
そしてドーキンスの『利己的な遺伝子』など、
かんがみれば、節目節目に感化された本があった。
ふうんと思ったのは、
全共闘紛争で荒れ果てた東大に入学した情景
○「「種の保存」という群淘汰は誤りで、遺伝子淘汰に書き換えねばならない」のに、
そうじゃなかった当時の大学の研究室。
○「1991年に」『利己的な遺伝子』という原題で再刊された本が、
中身よりもタイトルが珍重がられて一人歩きしはじめたあたり。

ミームへの作者の記述もふうんと思った。

個人は、文化のまったくの奴隷ではない。また、どんな文化が生み出されるかは
任意だとは言っても、逆立ちして歩くことが普通であるという文化は存在しない。
文化の任意性には、生物としての人間が持っているなんらかの制約が反映されて
いるはずだ。


ぼくならどんな本が、このような性格にしてしまったのか、
そのうち考えてみよう。


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