クラシックな文学の香り、漂う、怖い話

 

 

『ゴースト・ストーリー傑作選 英米女性作家8短篇』川本静子・佐藤宏子編訳を読む。


「19世紀半ばから20世紀初頭」ブームとなったゴースト・ストーリー。訳者あとがきによると、この頃のゴースト・ストーリーのうち、なんと「70%が有名・無名の女性作家」だったとか。その中から英米各4篇の作品をチョイス。

 

何篇かの作品のあらすじや感想をば。

 

『冷たい抱擁』メアリー・エリザベス・ブラッドン著 川本静子訳
画家である男は身寄りがなく父の兄に面倒をみてもらっていた。男と伯父の娘・ゲルトルーデは二人で結婚を約束していた。男は画家として成功するためにイタリアに旅立つ。彼女は手紙を出すが、次第に返信は滞りがちに。父親は一方的に金持ちとの結婚を決めてしまう。男は結婚式の日に戻って来た。河岸で自殺した溺死体を目撃する。それはゲルトルーデだった。男は逃げるように立ち去る。それから、事ある度に「冷たい両腕が男の首に巻きつく」。華奢な指。男が婚約指輪としてあげた蛇の指輪が。
彼女なのか。憔悴しきった男。「冷たい両腕が男の首に巻きつかれ」て絶命する。

 

『ヴォクスホール通りの古家 』シャーロット・リデル著 川本静子訳
父親と諍いの絶えないグレアムは、文無しで今夜泊まるところにも困っていた。とある屋敷を覗き込んで再び歩いていると、屋敷から声をかける者が。かつてグレアムの家で使用人をしていたウィリアムだった。彼が一時期住んでいたという。屋敷はすっかり古びていたが、元は名家の屋敷だったとか。なぜ彼が住めるのか。持ち主の妹が金目当ての強盗に襲われ殺されたから。訳あり物件。

グレアムはその夜、悪夢を見る。守銭奴のような老婆にうなされる。ウィリアムの家族も最初は一緒に住んでいたのだが、夜中、足音や声が聴こえると気味悪がって屋敷を出た。屋敷を探る。妖しい声は幽霊ではなく二人の泥棒だった。グレアムは、泥棒たちが見つけることができなかった株券や証文などのお宝を手にする。意気揚々とその顛末を父親・クールトン提督に話す。

 

『藤の大樹 』シャーロット・パーキンズ・ギルマン著 佐藤宏子訳
「子どもをください」と母親に懇願する娘。手は、「小さな紅玉髄(カーネリアン)の十字架を握りしめ」ている。娘は望まれない出産をした。父親は従兄との結婚を強引にすすめようとしていた。故国から船に乗せた蔓植物は成長が著しい。…「お化け屋敷」のような家。藤の大樹が屋敷のあらゆるところに蔓を這わせている。藤の樹が屋敷を崩壊から防いでいる。若い夫婦たちは、物件見学というよりも幽霊探し気分。地下室で作業をしていた大工たちが声を挙げる。根本に女性の白骨死体があった。「小さな紅玉髄(カーネリアン)の十字架」が首に。
『黄色い壁紙』の作者ならではの作品。蔓は、社会、男性からの女性への拘束の象徴か。

 

『ルエラ・ミラー』メアリ・ウィルキンズ・フリーマン著 佐藤宏子訳
ルエラ・ミラーは気品漂う老婆。若い時分は美貌で鳴らした。なぜか彼女の周囲では次々と不審死が起こる。その様子を見ていた老婆・リディア・アンダーソンは語る。ぴんぴんしていた彼女が突然、今は廃屋となったルエラ・ミラーの屋敷で亡くなっていた。真相などは書いてないし、書く必要もない。今でいう都市伝説のようなものか。

 

『呼び鈴』 イーディス・ウォートン著 佐藤宏子訳
ハートレイはレイルトン夫人の姪のプリンプトン夫人の屋敷の小間使いとして雇われることになった。彼女の前任者、エマ・サクソンは病死したという。プリンプトン夫人の夫は仕事の都合か、屋敷にはほとんど滞在しなかった。屋敷内のとある部屋で人影らしきものを見る。プリンプトン夫人は腺病質だったが、物静かで優しく、使用人たちとも和気あいあいだった。ところが、突然、夫が帰宅すると、空気は一変する。夫は、夫人が友人のランフォードと懇意にしていることが面白くない。呼び鈴が鳴る、奥さまだ。向かおうとする前を誰かが先を行く。後日、再び呼び鈴が鳴る。しかし、奥様は鳴らしていないと。死んだエマ・サクソンが現われる。夫婦に悲劇が訪れる。

 

人気blogランキング

気分は『フィネガンズ・ウエイク』を読んだダブリン市民

 

 

『エセ物語』室井光広著を、やっとこさ、読む。

 

作者、最後の未完の長篇小説。すごいと思う。面白いとは思う。しかし、しかし、ちゃっちゃとは読めない。とにかく時間をかけて読み進める。長距離読者の孤独である。

 

一応、内容を紹介してみる。「私の双子の妹と結婚していた」かつての夫(外国人)の膨大な遺稿集を読み解くもの。ユダヤ人ゆえ日本語名。重(ジュー)氏。重氏は、「西洋人(ユダヤアメリカ人)と東洋人(台湾のチャイニーズ)の両方に血脈を持つ」。「晩年は東アジアに関心を深めて」おり、遺稿集の章立ても「陰陽五行」を踏まえたものだと。

 

各章のタイトルからして笑える。たとえば、「おらおらでてんでんごにいぐも」。若竹千佐子の小説『おらおらでひとりいぐも』と「てんでんご」*の掛け合わせの妙。座布団、何枚だ?

 

そも、『エセ物語』は『伊勢物語』のもじりだそうだ。作者は会津、ぼくは中通りの出身。同じ福島県でも、方言はかなり異なる。でも、わかるものもある。「え」を「い」と訛って発音する。ぼくの高校時代の現国の先生がそうだったことを思いだす。「江戸(えど)時代」が「いど時代」、「助手の添田(そえた)さん」が、「そいたさん」。

 

地元の人々は「私(わたし)をアダシと発音する」、訛って。「私(アダシ)の」が、「化野(アダシノ)」(京都の風葬、火葬の地)になる。

 

かような壮大な言葉遊び。ナンセンス文学は、意味がないことに意味があるのだが、この作品はナン-ナンセンス文学。意味がありすぎることに意味があるのか。うーん、まだ、未消化。


宮沢賢治は「イーハトーボ」、井上ひさしは「吉里吉里人」、漫画家ますむらひろしは「アタゴオル」と偶然、東北出身の作家・漫画家が故郷をユートピア化やディストピア化しているのは、風土に関係しているのだろうか。

 

作者は出身地である福島県南会津郡下郷町を「下肥町」の変換して、「願いとコエはよくかけろ」と素敵なスローガンをつくっている。

 

アイルランド人がジョイスの『フィネガンズ・ウエイク』を読む感じなのかな。柳瀬尚紀、渾身の翻訳『フィネガンズ・ウエイク』を読んだが、上巻半ばでギブアップしてしまった。この作品は、へろへろになりながら、読了にはこぎつけることができた。

 

小説に攻められたいM気質の読者の人なら、おすすめする。のたうち回ること必至(必死)。あ、感化されてる。

 

おまけ。この作品で「あんにゃ」と「おんつぁ」が出て来る。あんにゃは、兄貴、兄い、若い兄さんのことだが、30代になっても独身でバイクやオーディオやアイドルなどの趣味に夢中になっている男性を蔑む意味でも使うと。大人げない大人。で、対語が、おんつぁ。おじさん、おっさん、中年男性を意味する方言。なんだけど、「この傘、おんつぁになった」とかも言う。この場合、壊れた、役立たずの意味で使っていた。

 

*「てんでんご」津波が来たら家族は各自ばらばらに逃げるという三陸地方などでの伝統的な避難方法

 


人気blogランキング

『きみの友だち』or『君の友だち(You've Got a Friend)』

 

 

子どもが読みたくて近所の書店を数件回っても見つからなかった重松清著の『きみの友だち』。妻がamazonで頼んだら、翌日には届いた。町の小さな書店はかなわないわけだ。あっという間に読んでしまったようだ。どれどれと空き時間に一つずつ読んでいる。

 

子どもは同じクラスの女の子からの紹介、いわゆるクチコミ(バズる)で知ったらしい。
クチコミだとか、好きなタレントの好きな本だとか、そういう影響は若いほど、大きいようだ。

 

『きみの友だち』と聞いたとき、キャロル・キング?ジェイムス・テーラー?の曲かと思った。この曲、かなり好きな曲なもので。やっぱ(死語)、キャロル・キングの方っしょ、選ぶなら。

 

いつぞやTBSの『王様のブランチ』に作者が生出演したとき、小説のネタ元は妻子からといっていたけど、耳をダンボにして(死語)小説に反映させている。


読んでいて、特に女の子の世界、派閥争いなど、たまに子どもが話してくれる学校のことと見事にオーバーラップしている。

 

足の悪い恵美ちゃんと重い病を抱えた由香ちゃんを中心にさまざまなキャラが登場する。ハンディを背負った子に対して抱くのは、友情なのか、同情なのか。つい憐憫の情で必要以上に過剰に大切に接したりして、それがまた当人にはうざかったりする。この小説から、ぼくも小学校のときにいたそんな級友を思い浮かべていた。どうしているんだろうな。

 

仲良しになって、ケンカして、また仲良しになって…。その繰り返し。傷つき、悩み、怒り、泣いて、笑って、そんなことから成長していき、生きることを身につけていく。

 

それと巧すぎるのだろうか、どうも重松の作品は小説としていつも若干のザラつきを覚えてしまう。それは何なのか。まだうまくいえないんだけど。

 

昔、書いたレビュー。『つづれおり』聴かなきゃ。


人気blogランキング

ユーモラスな無頼派―木山捷平伝

 

 

『木山さん、捷平さん』岩阪恵子著を読む。閉めていた日本文学の引き出しを久しぶりに開けさせられた。

 

評伝を書くために作者は資料を漁る。木山にゆかりのある土地を訪ねる。そうこうしているうちに、作者の中に木山という人間像が組み立てられていく。

 

文学好きの父親の血をひいてか、農家の後を継がず、作家の道を諦め一度は小学校の教師になるが、諦めきれずに上京する。売れっ子作家とは無縁の人生を歩むが、次第に作品が評価され、知己も増え、所帯をもってどうにかこうにかの人生を歩む。淡々と自分の心情を吐露する詩人、私小説作家、文士となる。

 

敗戦濃厚な日本じゃ息も詰まるし、好きな酒も飲めないというので、二度目の満州行きをする木山。

 

痩せこけて栄養失調状態で満州から引き揚げるが、ともかく酒、ないときはアルコールまでに手を出して体内暖房とコレラ予防のため消毒にせっせとつとめていた。

 

後先を考えない無鉄砲ぶり。臆病なのか、大胆なのか。作者が敬愛してやまない作家・詩人の先達だけに、あたたかな視線で人となりや生き方がよく見えてくる評伝。

 

知らなかったけど、木山は井伏鱒二のいわゆる荻窪グループの一員だったそうだ。井伏を対象に神林暁、小沼丹尾崎一雄(彼は荻窪グループではないが)など読んだことのある好きな作家が登場して、うれしくなる。あとはトンビ(インバニスコート)を一分の隙なく着こなしたダンディな太宰治もちらと登場する。

 

木山は詩と小説をこなす人で、晩年まで小説はその作風が井伏の亜流のように見なされていたそうだ。作者も書いているが、詩は、やはり山之口漠と共通しているものがある。詩も何篇か紹介しているが、ぼくはどちらかというと若い時分の詩作がモダンで青くて好みだ。

 

本文にユーモアの書ける・書けないは作者の資質、天分だというくだりが出て来る。誰か作者以外の人が木山を賛辞して使っているのだが。私小説作家=無頼派固定観念が定着しているが、木山はユーモラスな無頼派。太宰の「人間失格」のトラ(トラジティ:悲劇)とコメ(コメディ:喜劇)の分類合戦がふと頭をよぎった。

 

しかし、戦前に二回芥川賞にノミネートされて落選したときの落胆振りはすごかったとか。でも、人前では「飄々」としている。こりゃかなりのやせ我慢の人だ。晩年の小説は、完全に独自の作風を完成したそうだ。付記しておく。

 

ううんと高田渡とか志ん生とか好きな人なら、リコメンドする。これで小難しい重たいアフォリスムをいうとエリック・ホッファーになる(ホンマカイナ?)。


人気blogランキング

境界域は文明の揺りかご

 

 

『文明の交流史観―日本文明のなかの世界文明』小林道憲著を読む。以下メモ。

 

梅棹忠夫の『文明の生態史観』批判

文明とはそれぞれが独自に生まれ、独自に発展していったのではなく、盛んな「文明交流」によって、発展していった。その部分が『文明の生態史観』にはまったく欠落していると。作者は「媒介」役となった文明に焦点をあて、自論を展開していく。

いみじくも作者は文明の交流を曼荼羅にたとえているが、南方曼荼羅のようにいろんな円から沢山の線がお互いに発しれている、そんなイメージなのだろうか。それがノードになったり、ハブ的な存在が「媒体文明」。

 

○「媒体文明という考え」

「中心文明と周辺文明」だけでは交流は生じない。そこに「媒体文明」がなければ。
「陽子と中性子を結びつけるものとして、中間子がなければならないように」。
また「媒体文明」は、「境界域」で生まれ、育つ。「市場」と作者はいい、ぼくはパッサージュをイメージする。名づければ、カオス市場。渾然となった得体の知れないエネルギッシュなもの。


○「鎖国はなかった」

これは意外だけど、読んでいるうちにそうかあと。昔習った日本史では江戸時代は日本は鎖国政策によって長崎の出島での中国・オランダ以外の貿易は原則禁じられていた。ゆえに、まあ国のひきこもりによって、日本独自の文化が醸成されたと。「否!」と作者はいう。現に出島からヨーロッパ文化が入り込み、日本文化に影響を与えたと。そう鍋島焼とか伊万里焼がヨーロッパに輸出され、その鮮やかな色彩・文様はカルチャーショックを与えたわけだし。このあたりの輸出入のバランスシートだの統計だのが推定でもいいからある程度きちんと算出されると面白いかも。

 

○「人間は交換する動物である」

「人間は交易することによって、その制約を越える。-略-しかも、この交易活動によって、交通が発達し、人々が出会い、文化の交流が伸展する。-略-交易は、文明の相互発展を可能にする重要な触媒である」

 

○「複雑系としての文明」

「西欧文明も、決して自律的に発生や成長をしてきたのではなく、異文化の流入によって発展してきた。特に、西欧文明の勃興に、イスラム文明が果たした役割は大きい」

食いしん坊のぼくは、オスマントルコのウィーン侵略により、「コーヒーとクロワッサン」が伝播したことを即思いつく。

鈴木光司のデビュー作『楽園』を読んでいるような、膨大な時の流れを一気にワープするような眩暈にも似たものを覚える。またはファンタジーノベルやR.P.G.で異国から異国を旅するような感じにも。怪しげなバザールをさすらうような。

 

突然、こんなことが浮かんできた。「媒体文明」=ミーム(ミームの集合体、複合体)とも仮定できるのでは。


人気blogランキング

天才哲学者の傲慢とか自信のなさとか覗き読み

 

 

ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記―1930‐1932/1936‐1937』(すごい邦訳)イルゾ・ゾマヴィラ編 鬼界彰夫訳を、少しずつ読んでいる。少しずつしか読めないんだけど。

 

テイストは、なんだろ、キルケゴールの『誘惑者の日記』に似ている。キルケゴールのことも何度か日記中に出て来るが。ブラームスブルックナーヴァーグナーなど音楽の言及もしばしば。ええとこぼんのウィトゲンシュタイン、兄は隻腕のピアニストとして知られる音楽一家。

 

天才哲学者の傲慢と自信のなさが見え隠れして、ついでに意外なことに恋愛感情も吐露していたりして、ファンにはたまらない。

 

彼の著作を読むと、結晶というのか、ほんとうに削ぎ落とされた冷晰な構文が連なっているのだが、この本は、日記で、当たり前か、日記マニアのぼくとしても、俗な一文を見ると、ついうれしくなってしまう。「死後42年を経た1993年に発見される」とは。


日記は「前半の『論考』から後半の『探求』」に至る間の時期に書かれたものだそうで、学術的には彼の哲学のコペルニクス的転換を知る上での貴重な資料にもなるとか。

日記をサラされたことに怒っているかもしれない。草葉の陰で「訴えてやる」とか。


人気blogランキング

日本とドイツ、同じ敗戦国でありながら異なる道へ

 

 

『日本とドイツ 二つの戦後思想』仲正昌樹を読む。

 

敗戦国である両国が戦後から現在までどのような思想の変遷があったかを明瞭にまとめてある。いわば、思索の交通整理的本。作者のスタンスが左でも右でもなくニュートラル、それもイジワル(クールともいえるが)なニュートラルなので、こういうことなのかと、なるへそ、なるへそと、冬景色を眺めつつ読む。

 

日本だと島国で欧州のように地続きではないので、マルクス主義は実際の脅威としてよりも、戦前のインテリゲンチャのたしなみのようなものだったと。某新聞社のエライサンもかつてはマルクスボーイだったことをふと思い出す。そっから、観念つーか、理論が枝分かれして、さまざまな思想が生まれたと。「労働者」とか「市民」とか、いまはすっかり手垢がついた言葉になってしまった。

 

一箇所引用。

 

「高度成長という目標が一応達成されたため、生産主体のモデルが消滅した。「追いつけ追い越せ」という標語の下で、パラノイア(偏執)的に富の蓄積に邁進してきた「大人」たちがモデルにならなくなった今、ポストモダンの「子供たち」は、特定のものに固執しようとせず~(一部略)」
「彼らは明確な人間としてのアイデンティティ(自己同一性)を持たず、“子供のまま”なのだ」

 

最近のベンチャー企業の若者たちって“子供のまま”で「富の蓄積に邁進」している気がするが、これはいわゆるニュータイプなのだろうか。と、くたびれた胃袋で考えてみる。

 

新作はもう読めないので、未読の仲正本を図書館で借りるつもり。

 

人気blogランキング