アマゾンの物流センターのルポを読んで『蟹工船』を思い出した

 

 



そういえばアマゾンの物流センターに潜り込んで本を書いた人がいたことを思い出した。それが、この本、『潜入ルポ アマゾンドットコムの光と影―躍進するIT企業・階層化する労働現場』横田増生著。


アマゾンの繁栄は、最先端のITもあるが、フリーターなり派遣社員マンパワーで支えていることもある。潜入ルポは、別段アマゾンでなくても、この手の仕事ならたぶん日常的な光景のはず。セキュリティが厳しいのも、当然至極のことで。ただ抜け荷というのか、物流センター内でも万引きが多いというのはつい笑ってしまった。

 

派遣社員とフリーターの待遇の違い、作者と同僚の悲哀こもごも。高くもない時給でいかに効率よく機械のように働かされるか。まるで消耗品扱い。派遣会社のべらぼうなピンハネについてふれてもいるが、まあ、どこもそんなもので。実際、企業から支払われている金額と派遣社員に支払われる金額の差は、ブックオフの人気新刊本の買値と売値ぐらいの差がある。でなきゃ、あんな立派なビルにも入れないし。


ただ頭数を確保して、アウトソーシングなどといけしゃあしゃあといってほしくない。と、こちとらは思うけど、単なる頭数扱いなわけで。と、お決まりの話になるので、ヤメ。

 

ぼくも学生時代に週末に本の仕分け作業のアルバイトをしたことがある。当時でも安い時給で、社員食堂の昼飯つき。そのときは、土日に社員を休ませるので、代用要員だった。ベルトコンベアに月曜日発売になる週刊誌の束が流れてくる。それを各担当の地域ごと、書店別にピックアップする内容。ときたま短い休憩があったけど、いやはや目が回った。チャップリンの『モダンタイムス』状態。かなり腰にもきた。旅行資金稼ぎのためにはじめたのだが、そのメドがついたので、辞めてしまった。

 

遊ぶ金ならまだしも、これで人並みに生活していくのは厳しい。それとたとえば将来的に社員になれるとか、そんな希望が一切ないのもつらい。すがるクモの糸さえ舞い降りてこないとは。

 

興味を覚えたところ。

 

○創業者ジェフ・ベゾスが当初アマゾンに対してイメージしたのは「ネット上の小さな書店」だということ。これは納得。魅力的な棚のリアル書店のような楽しさがある。

 

○「日本のリアル書店はこれまで、洪水のように流れてくる新刊の波に翻弄され、顧客が何を求めているのかを見極めるという商売の基本をおろそかにしてきた。それに対してアマゾンは、顧客データをもとに需要を予測して仕入れや商品開発につなげている。
それまで受身一辺倒だった書店経営を“顧客第一主義”という理念を軸にして能動的なものに変えたことがアマゾン急成長の秘密だった」と。

 

○アマゾンが秘密主義を徹底していること。現時点でどうなっているかは知らないが、
ともかく情報は非開示。同じIT関連企業でパプリシティになるからとやたら出たがる企業とは一線を画している。これは、宣伝なんかしなくても、客はついてくるという自信のあらわれなのか、痛い腹を探られたくないからなのか。どっちなんだろう。


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ナウい翻訳でよみがえる漢詩、感じいい

 

 


『いつかたこぶねになる日』 小津 夜景著を読む。

 

俳句や短歌は、このところ、若い人が現われて活況を呈している。読み手よりも詠み手が多いといわれているが。かつての敬老会の趣味といった体はないかも。いや、あるのか。

 

なら、漢詩はどうだろう。NHK大河ドラマ「光る君へ」では、貴族のたしなみとして漢詩を詠んでいるが。

 

古今東西(西はないか)の漢詩俳人である作者が、現代語訳に訳してその魅力を紹介している。その訳がお見事。「杜甫や李賀、白居易」から菅原道真、「新井白石夏目漱石」まで多彩な漢詩がなんつーかアップデート、今様、ナウい漢詩になっている。feel so good !

 

良寛漢詩を引用。

「『 良寛の「我生何処来」 』
       読み下し文

我生何処来  我が生は何処より来たり
去而何処之  去って何処へ行くのか
独坐蓬窓下  独り蓬窓の下に坐して
兀兀静尋思  兀兀と静かに尋思す
尋思不知始  尋思するも始めを知らず
焉能知其終  焉んぞ能くその終わりを知らん
現在亦復然  現在亦また然り
展転総是空  展転として総ては是れ空
空中且有我  空中にしばらく我有り
況有是與非  況んや是と非と有らんや
不如容些子  些子を容れるに如かず
随縁且従容  縁に随ってしばらく従容す


       翻訳

我生何処来  僕はどこから来て
去而何処之  どこへ去ってゆくのか
独坐蓬窓下  ひとり草庵の窓辺にすわって
兀兀静尋思  じっと静かに思いめぐらしてみる
尋思不知始  思いめぐらすもはじまりはわからず
焉能知其終  ましてやおわりはもっとわからない
現在亦復然  いまここだってまたそうで
展転総是空  移ろうすべてはからっぽなのだ
空中且有我  からっぽの中につかのま僕はいて
況有是與非  なおかつ存在によいもわるいもない
不如容些子  ちっぽけな自分をからっぽにゆだね
随縁且従容  風の吹くままに生きてゆこう     」

 

ゴーギャンの代表作のタイトルのようであり、実存哲学のようであり、ま、禅寺(曹洞宗)の和尚さんだったからね、良寛さんは。最後の一行はボブ・ディランの『風に吹かれて』の「 The answer is blowin' in the wind 」とつながる。

 

本の構成が、まず、フランスで暮らす作者のエッセイから入ってそれにリンクする漢詩を取り上げている。この構成、逆がよいのでは。最初のページに小津夜景訳と漢詩が大きな文字で。次のページにエッセイ。ま、大きなお世話だが。

 

エッセイはお菓子作りやコロナ禍のパリでのベランダーや南仏の海、自身の病気や夫との出会いなどが描かれている。多和田葉子須賀敦子あたりが好きな人ならおすすめ。

 

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なかった市場をつくり、先行者利益をいただくのが「ブルー・オーシャン」

 

 

『ブルー・オーシャン戦略 競争のない世界を創造する』W・チャン・キム+レム・モボルニュ著を読む。

 

要するに同じ土俵(市場)で勝負するな。勝負するなら、違う土俵、「未開拓の新市場」で。従来の市場でパイの取り合いをする戦略を「レッド・オーシャン」(各社ときには出血大サービスするからかな)といい、なかった市場をつくり、一番乗りしておいしいとこをいただくのが「ブルー・オーシャン」と呼ぶ。

 

なんだ、そういうことか。いろんな『ブルー・オーシャン戦略』の例や分析・策定・実行までを取り上げているが、新鮮味はさほど感じられない。だってマーケティングじゃ、わりとポピュラーな手法だもの。

 

なんか例を挙げよう。若い女性対象のカップ麺を開発するとしよう。従来のカップ麺は男性向け、添加物のかたまりという印象が強かったが、できるだけ無添加の素材、おしゃれなパッケージ及びネーミングにして、洋風イメージで展開する。
で、ここがミソ。売場を即席麺・カップ麺売場ではなく、スープ売場に陳列してもらう。低農薬野菜売場にも陳列して、旬の野菜を加えたオリジナルレシピを提案したPOPやメニューカードもディスプレイしてもらう。健康食品売場でもいい。


CVSではサラダ・惣菜コーナーのそばとか。OLのランチの定番化を目指して。食べるヌードルスープといったイメージで。

 

とはいえ、「ブルー・オーシャン」の命は短くて類似製品が投入されて、たちまち「レッド・オーシャン」化してしまう。柳の下にドジョウは何匹もいないわけで。


ご丁寧に冒頭あたりで『ビジョナリー・カンパニー』のコンセプトを、あと出しジャンケンさながら批判しているが、まあどんなに優れた企業とて栄枯衰勢はあるわけで、的はずれ。たとえば、日本企業で唯一、ビジョナリー・カンパニーとして紹介されていたソニーとか。


『ビジョナリー・カンパニー』と比べると、ちょっと期待はずれの内容かもね。

 

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決して他人事ではない7つの科学に関する事件

 

 

『科学事件』柴田鉄治著を読む。

 

新聞や雑誌を読む。TVのニュースやワイドショーを見る。あるいは会社や近所の人との話から。昨今ではsnsか。現代人は、さまざまな情報をメディアから入手している。
入手した時はリアルタイムな情報であったとしても、それは断片であり、事実のごく一部である。


しかし、それを早計に真実として咀嚼してしまい、いつの間にか忘れ、また起こった新しい事件にヤジウマと化している。

 

本書は「脳死・臓器移植」「薬害エイズ」「体外受精」「原子力」「水俣病」「大地震」「クローン羊」の科学に関して起きた、起こっている身近な7つの事件をピックアップして、コンパクトにまとめたものである。大づかみでありながらも、その事件の経緯、国やマスコミの対応など、全貌がつかめる。これは大切なことだ。

 

本書の帯のコピーに「ますます拡大する科学技術と社会の軋轢」とあるが、これらの基本的なことを知らなければ、軋轢も感じることはないだろう。でも、決して他人事ではないのだ。

 

一読して、自分自身がこれらの科学事件に関していかに無知であったか、また記憶がいかにいい加減であるかをつくづく思い知らされた。


科学技術は、人間に豊かさ、便利さなどさまざまなベネフィットをもたらせた。確かに否定はしない。しかし、だからと言って科学の進歩=人間の進歩である、ゆえに、科学技術の発展のために、多少の犠牲は止むを得ない。と、言うのは科学の傲慢(ごうまん)ではないだろうか。

 

たとえば、国内初の心臓移植。その背景が明白になるとともに、マスコミは執刀した大学教授に対して礼賛から批判に変わる。そして臓器移植が再会された時のマスコミの過熱報道ぶりなどなど。なんか人間が実験動物にされているような気がしてならないのだ。


また、茨城県東海村のウラン加工工場の臨界事故も人間のイージーミスというか信じられないずさんな管理が命取りになりかねない見本のような、寓話のような事件である。ドイツは原子力発電を捨てたのにね。それと、地域産業振興にも貢献するのがウリの原発だけど、最も危険な作業は、地元の人がしていることも、改めて確認できた。

 

作者は朝日新聞の科学畑の記者出身だけに、マスコミの取材姿勢に対して厳しく諌める時もあり、また、必要以上に擁護や弁護をする時もある。役人や企業側の御用学者に騙されないようにするためにも、マスコミに余り煽られないように、せめてこれぐらいのことは知っておきたいものである。

 

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来る来ない 来た

 

 


『だれか、来る』 ヨン・フォッセ著 河合純枝訳を読む。

 

「2023年ノーベル文学賞を受賞した、ノルウェーを代表する劇作家の」「初の日本語訳本」。『だれか、来る』は戯曲。戯曲、なんか読みにくい。いやいや、そんなことはなかった。

 

「五十代の彼」と「三十代の彼女」は、オーシャンビューならぬフィヨルドビューの古い家を買う。交通の便も悪いが、その分、邪魔されずに二人っきりでいられる。

「二人きりになりたい」でも、だれか、来るかも。

 

彼女は家を買ったことに満足しているが、彼の方はやや後悔しているところもある。
第一場ではだれも来ない。さては、ベケットの『ゴドーを待ちながら』の本歌取りかと思ったら、第二場でだれかが来た。


2人が買った家の持ち主だった祖母の孫の二十代の男性だった。

 

家は老婆の使っていた家具調度品もそっくりそのままある。薄汚れたベッドの下にはオマルがあって、中には半分ほど尿が残っているという按配。

 

来た男が昔流行った用語で言うならトリックスターなわけで。侵入した男は、「彼」と「彼女」の間に波風を立てる。こんなロケーションも悪い古家を買ってくれてありがとうと口先では謝辞を言うが、なんか本心は違うような。

 

ベケットの反演劇風でもあるが、チェーホフ風でもある。村上春樹の小説ではなく濱口竜介監督の映画版『ドライブ・マイ・カー』にもつながるような。

 

『魚の大きな目』は、エッセイ。散文詩といってもよいだろう。ミニマルかつリズミカルな文体。フィヨルドでフィッシングをする「僕」。釣りをしながら、自分の創作や人生について考える。

 

訳者の詳細な解説がありがたい。小津安二郎の映画にも感化されたとか。確かに短い台詞や間は似ているかも。

 

話は戻るが、『だれか、来る』は、不条理というかシュールなコントにも思える。東京03でやったらいいかもと妄想する。キャスティングは

飯塚悟志…彼
豊本明長…彼女
角田晃広…男

 

小津安二郎が監督するなら
笠智衆 1904年生まれ…彼
原節子 1920年生まれ…彼女
佐田啓二 1926年生まれ…男

 

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おどるでく、踊る木偶、オドラデク

 

 

『おどるでく-猫又伝奇集』室井光広著を読む。

 

『猫又拾遺』は作者の出身地である南会津を「猫又」と名付け、不可思議な話を集めた短篇集。宮沢賢治岩手県を「イーハトーボ」と命名したが、こちらは猫又。メルヘンチックではなく妖怪チック、民俗学チックで今様昔話の趣き。閻連科とか深沢七郎あたりを思い出す。『遠野物語』とかも。「伝奇集」は、ボルヘスへのリスペクトを込めてか。

 

『おどるでく』芥川賞受賞作品。「踊る木偶(でく)」はすぐにわかったが、そこにカフカの「オドラデク」が重なっているとは。オドラデクはカフカの短編小説『父の気がかり』に出てくる珍妙な生き物。茅葺き屋根の生家の二階で偶然段ボールに入った大量の日記を見つける「私」。書いたのは「仮名書露文」。しかもロシア語で書かれている。ロシア語を多少齧ったことのあるは、日記を読み解く。なぜロシア語で。啄木の「ローマ字日記」のようなものかと思うのだが。仮名書露文とは小学校からの知り合い。家業は元々毒消屋でいまは材木屋。一事が万事、言語へのこだわり方がすごい。としか書きようがない。

 

小説の他にインタビューや川口好美による解説もあり、室井文学の理解の一助になる。


「―あの方言はすべて実在するんですか?―略―
 室井 半分以上はつくったものです。
 ――略―「おどるでく」という方言はあるんですか?
 室井 あれもないです。ただ、根も葉もないわけではなくて、子供の頃、爺さんがしゃべってたなんだかわからない言葉のかけらとか、おふくろがなにかの
表紙にぴゅーっと口に出した言葉とかをなぞってつくっているんです。ぼくとしては、なんていうか、そういう幽霊みたいな言葉としてとらえていて、ジョイス語と
にているかもしれません」(「室井光広氏と語る」聞き手・加藤弘一より)

 

多和田葉子の巻末エッセイで作者の人柄を知る。好エッセイ。

 

言葉の迷宮から抜け出るのは容易なこっちゃない。つーか、抜け出たくない。

 

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つながりすぎない、つながり―ネットの普遍的なキイワードは「リンク」「シェア」「フラット」+「グローバル」

 

 

『インターネット的』糸井重里著を久々に再読する。昔、書いたレビューを。

 

「インターネット」と「インターネット的」とは、どう違うのか。「インターネット」は、通信メディアの一手段、作者は「伝える仕組み」と言っているが、「インターネット的」となると、なにやら、ムープメントとか潮流とかそういう社会全体の動きなどといったニュアンスを含んでいるようだ。

 

国内のインターネット人口は3000万人を突破し、うち自宅での利用者数はおおよそ2395万人だそうだ(「ネットレイティングス」発表 2001年6月現在)。

 

ほぼ日刊イトイ新聞』は、一日にほぼ35万件ものアクセスがある人気サイトだ。インターネットの壁新聞ともいうべきこのサイトは、ぼくも愛読しているが、多分、Webデザイン、コンテンツとも最も充実しているものの一つではないだろうか。有名人・無名人、プロ・アマを問わずツブぞろいのコラムで、飛ばし読みしてもなかなか時間がかかる。

 

「インターネット的のキイワード」として作者は「リンク」(つながる)「シェア」(おすそわけ)「フラット」(平ら、無名性)の3つをあげ、さらに「グローバル」をプラスしている。インターネットを楽しんでいる人なら「何、当り前のこと、言ってんの」となるだろう。けど、改めて考えてみると、これって、やっぱり、すごいことである。

 

極論すれば、インターネット平等主義である。作者は社会心理学者の山岸俊男の言葉を引用してこう述べている。「正直は最大の戦略である」。インターネットでは、どう表現するかよりも何を表現するかだと(活字でもそうあるべきなのだが)。取りも直さず、それは、いかに正直に自分を伝えるかということである。作者言うところの「知らないものは知らないと言う」態度だ。そして「ほんとに話すように書く」。

 

地位も名誉もある大学教授のクリシェ(常套句)だらけのお説教よりも、それこそ町のお豆腐屋さんの主人の美味しい豆腐の作り方やサラリーマンの怒りの方が、よっぽどネットの特性が活きているのではないかしらん(活字でもそうあるべきなのだが)。リンクってのは、クチコミだよね、要するに。しかも、リアルじゃまったく知り合えない人と、知り合えて、自分のネットワークを広げることができるんだから。

 

趣味・趣向が似た人同士のネットでの付き合いは、不思議なんだけど、楽しい。そこらへんを「Only is not lonely」と一行で述べている。「つながりすぎないで、つながれることを知る」。そーか、「インターネット的」って、そーゆーことだったんだ。

 

論より証拠。『ほぼ日~』をしばらく読んでいれば、作者が本書で言いたかったことが見えてくると思う。「インターネットの現場」にどっぷり浸かってきた作者の肝(きも)の部分が、結構見え隠れしていて、ぼくには、インターネットについて書かれた凡百のビジネス書より100万倍、チャーミングだったし、参考にもなった。


付記

最新データでは「2022年のインターネット利用率(個人)は84.9%となっており、端末別のインターネット利用率(個人)は、「スマートフォン」(71.2%)が「パソコン」(48.5%)を22.6ポイント上回っている」(総務省 令和5年版「情報通信白書」より)

 

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