『エセ物語』室井光広著を、やっとこさ、読む。
作者、最後の未完の長篇小説。すごいと思う。面白いとは思う。しかし、しかし、ちゃっちゃとは読めない。とにかく時間をかけて読み進める。長距離読者の孤独である。
一応、内容を紹介してみる。「私の双子の妹と結婚していた」かつての夫(外国人)の膨大な遺稿集を読み解くもの。ユダヤ人ゆえ日本語名。重(ジュー)氏。重氏は、「西洋人(ユダヤ系アメリカ人)と東洋人(台湾のチャイニーズ)の両方に血脈を持つ」。「晩年は東アジアに関心を深めて」おり、遺稿集の章立ても「陰陽五行」を踏まえたものだと。
各章のタイトルからして笑える。たとえば、「おらおらでてんでんごにいぐも」。若竹千佐子の小説『おらおらでひとりいぐも』と「てんでんご」*の掛け合わせの妙。座布団、何枚だ?
そも、『エセ物語』は『伊勢物語』のもじりだそうだ。作者は会津、ぼくは中通りの出身。同じ福島県でも、方言はかなり異なる。でも、わかるものもある。「え」を「い」と訛って発音する。ぼくの高校時代の現国の先生がそうだったことを思いだす。「江戸(えど)時代」が「いど時代」、「助手の添田(そえた)さん」が、「そいたさん」。
地元の人々は「私(わたし)をアダシと発音する」、訛って。「私(アダシ)の」が、「化野(アダシノ)」(京都の風葬、火葬の地)になる。
かような壮大な言葉遊び。ナンセンス文学は、意味がないことに意味があるのだが、この作品はナン-ナンセンス文学。意味がありすぎることに意味があるのか。うーん、まだ、未消化。
宮沢賢治は「イーハトーボ」、井上ひさしは「吉里吉里人」、漫画家ますむらひろしは「アタゴオル」と偶然、東北出身の作家・漫画家が故郷をユートピア化やディストピア化しているのは、風土に関係しているのだろうか。
作者は出身地である福島県南会津郡下郷町を「下肥町」の変換して、「願いとコエはよくかけろ」と素敵なスローガンをつくっている。
アイルランド人がジョイスの『フィネガンズ・ウエイク』を読む感じなのかな。柳瀬尚紀、渾身の翻訳『フィネガンズ・ウエイク』を読んだが、上巻半ばでギブアップしてしまった。この作品は、へろへろになりながら、読了にはこぎつけることができた。
小説に攻められたいM気質の読者の人なら、おすすめする。のたうち回ること必至(必死)。あ、感化されてる。
おまけ。この作品で「あんにゃ」と「おんつぁ」が出て来る。あんにゃは、兄貴、兄い、若い兄さんのことだが、30代になっても独身でバイクやオーディオやアイドルなどの趣味に夢中になっている男性を蔑む意味でも使うと。大人げない大人。で、対語が、おんつぁ。おじさん、おっさん、中年男性を意味する方言。なんだけど、「この傘、おんつぁになった」とかも言う。この場合、壊れた、役立たずの意味で使っていた。
*「てんでんご」津波が来たら家族は各自ばらばらに逃げるという三陸地方などでの伝統的な避難方法