変格の「変」は変態の「変」変化球の「変」!?

 

 

変格ミステリ傑作選【戦前篇】』竹本健治選を読む。

 

戦前、花開いた変格ミステリ。本作では、本格ミステリ変格ミステリの違いを述べながら、夏目漱石谷崎潤一郎芥川龍之介川端康成などの文豪から江戸川乱歩横溝正史はもちろん夢野久作小栗虫太郎久生十蘭まで選者らが選りすぐった数々の作品が読める。

 

底なし沼のような変格ミステリに、すっかりはまってしまう。

 

「序文 変格探偵小説の発生と展開」谷口基著より引用2か所。

 

「乱歩登場以後、日中戦争が勃発する1937(昭和12)年頃までにかけて、謎解き・推理を基調とするオーソドックスなミステリをも含めて、犯罪、怪奇幻想、変態心理、エロ、グロ、猟奇、魔境・秘境冒険、SFの先蹤たる科学小説や未来記、映画シナリオ、コントの類に至るまで、いわば既成文学の枠組におさまりきらない奇想の小説群が、「探偵小説」の名の下に終結した」

 

「「変革」は、正系を主張する「本格」に対して、単に傍流、異端を示し得たにとどまらず、結果的に、ミステリ・ジャンルの間口を拡げ、表現者たちの実験的精神を刺激し、涵養する、肥沃な土壌を同時代文化に提供したのである」


印象に残った作品をちらと紹介。


『趣味の遺伝』夏目漱石
日露戦争後、賑やかな軍人の凱旋行進を見ながら、旅順で亡くなった友人の治さんを回想する主人公。治さんの墓参りに行ったとき、そこで偶然出会った美しい女性。恋人か。治さんと彼女には不思議な縁があった。書き出しの一行でやられてしまった。読み終えてなぜこの書名なのか、よくわかった。

 

『白昼鬼語』谷崎潤一郎
作家である主人公は高等遊民で探偵小説マニアの園村に呼び出される。殺人を見に行こうと。とある場所から覗いてみると、歌舞伎の名場面のように美女が男を殺めている。園村は、彼女とつきあい出す。殺されても構わないと。ほんとに殺された?いやあ耽美、耽美。この作品も書き出しが強烈。

 

『藪の中』芥川龍之介
藪の中で武弘という男が殺された。それで検非違使が尋問する。発見者や目撃者の証言スタイルで話が進む。人が変われば事件の見方も変わってとらえられる。一体、どれが真実なのか。海外ミステリのフォーマットを見事に換骨奪胎した作品。

 

『散りぬるを』川端康成
作家である私は、作家志望の滝子と家出してきた蔦子の面倒を見ていた。滝子の住まいに居候していた蔦子。二人とも三郎という男に刺殺される。動機らしい動機はない。不可解な事件。作者は三郎に憑依して殺人に至る心理を探る。

 

『目羅博士の不思議な犯罪』江戸川乱歩
丸ビルのとある部屋では月が美しい夜に連続して自殺者が出ている。と、ミステリのネタを作者に提供した青年。その不吉な部屋を見ながらほくそえんでいる老人を見かける。眼科医の目羅博士だった。カミュの『異邦人』の主人公ムルソーは、太陽のせいで殺人をしたと。目羅博士は、犯罪は月の光のせいだと。目羅博士のコレクションの蝋人形がなんとも不気味。

 

『蔵の中』横溝正史
美少年・蕗谷笛二(蕗谷虹児のもじりか)は、かつて美しい聾唖の姉と蔵の中で遊んだ思い出と雑誌編集長磯貝の殺人を暴いた小説を当人の磯貝宛に投稿する。殺人は虚構だが、どうやら磯貝の隠蔽しておきたい愛人の元へ通う私生活は、その通り。笛二に覗かれていたのか、マジヤバイ。姉、同様肺を病んだ笛二は蔵の中で女装に興じる。姉に負けない妖しい美しさ。

 

『海豹島』久生十蘭
「海豹島」は、「樺太東海岸オホーツク海にうかぶ絶海の孤島」。この荒涼たる厳しい環境の島で越冬する日本人技師の日誌形式で展開する。架空の島なのに、なんだこのリアリティやSF味は。絆名練のアンソロジーに入っていても違和感なし。後年、この流れが、たとえば石黒達昌冬至草』などに継承されていると個人的に思った。


戦後篇も、まもなく刊行されるとのこと。

 

 

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『寝ながら学べる構造主義』を参考書にメタ言語を考えてみた

 

 


知り合いのブログで「チョムスキーからオーウェルへ」というエントリーがあって、考えさせられるものがあった。メッセージを書き込もうとしたら、長くなりそうなんでレビューにしちまおうという魂胆。

 

どうもチョムスキーの生成変形文法は難しくて到底、うまくまとめられない。
なので、その先達の一人にあたるソシュールの言説をば、困ったときの内田本(『寝ながら学べる構造主義』)より、ちと引用。

 

「名づけられるものによって、はじめてものはその意味を確定するのであって、
命名される前の「名前を持たないもの」は実在しない、ソシュールはそう考えました」

 

「それだけをとってみると、思考内容というのは、星雲のようなものだ。そこには何一つ輪郭のたしかなものはない。あらかじめ定立された観念はない。言語の出現以前には、判然としたものは何一つないのだ」(『一般言語学定義』ソシュール)

 

「言語活動とは「すでに分節されたもの」に名を与えるのではなく、満天の星を星座に分かつように、非定型的で星雲状の世界に切り分ける作業そのものなのです。ある観念があらかじめ存在し、それに名前がつくのではなく、名前がつくことで、ある観念が私たちの思考の中に存在するようになるのです」

 

「哀しいから泣くのではない。泣くから哀しいのだ」にも似ているような。

「満点の星」でもいいし、知覚の深い海底でもいいんだけど、名前をつける=内なる言葉=言葉に発するための言葉の原形質みたいなものではないだろうか。
あるいは陶土のようなもの。この土からさまざまな陶磁器が生まれる。


いい言葉が浮かばないので使うが、突然、メタ言語なるものがひらめく。ネット検索したら、「言葉を定義づけるための言葉」と出ていたが、よくわかるようでわからない。

それはいきなり言語として表象なる場合もあるし、もやもやしていて後日、言語になる場合もあるだろう。でも、それは観念(idea)であって論理(logic)ではない。


なんで英語表記したかというと、日本語の翻訳に必要以上にとらわれることがままあるので。ideaだよ、アイデア

 

そこからはその人のイメージの発するままに、話せば音声言語、言葉になり、記述すれば文章になり、絵筆をとれば絵画になり、楽器を操れば音楽になる。煮詰めて、系統立てて、矛盾や破綻を来たさなければ、論理になるのかもしれない。

 

岡本太郎の流行語にもなった「芸術は爆発だ」も、モギケン先生の「アハ体験」も、
ほぼ同一内容だと勝手に決めつけてしまうが。

 

ちなみに論理(logic)についてのぼく的に最も腑に落ちる説明をまたまた引用で。
メタ言語ならぬマタ引用で。

 

「「論理」とは、言葉が相互にもっている関連性にほかならない。個々の主張が単発の発言に終わることなく、他の主張と関連しあっていく。それゆえにこそ、一貫性を問われたり、ある主張を根拠づけたり、また他の主張に反論したりすることが可能となる。そうして、言葉は互いに関連づけられ、より大きなまとまりを成し、ばらばらの断片から有機的な全体へと生命を与えられるのである。それゆえ、「論理的になる」とは、この関連性に敏感になり、言葉を大きなまとまりで見通す力を身につけることにほかならない」(『論理トレーニング』 野矢茂樹著より)

 

あなたは、この素晴らしい言説に座布団を何枚あげる?

 

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天才は、忘れた頃にやって来る

 

 

ビューティフル・マインド 天才数学者の絶望と奇跡』シルヴィア・ナサー著 塩川優訳を読む。


本作は、ナッシュ均衡ノーベル経済学賞を受賞したジョン・フォーブ・ナッシュの波瀾万丈にあふれた半生記。

 

彼はハーバード大学よりも奨学金などの条件提示が良かったプリンストン大学へ進学する。そこでは、プロ野球と同じで全国からその道の天才、神童と呼ばれた人間が集まってくるのだが、その中で自ずと天才のヒエラルキーが生成されていく。

 

小天才は、いままであった理論をブラッシュアップしたり、ヴァージョンアップしたりする、いわば名アレンジャーである。ところが、彼のようにまったくのオリジナリティ、誰にも似ていない、見たこともない発想を思いつくのが、真の天才である。

 

天才というのは良い意味でも、悪しき意味でも、エゴイストだ。考えてごらん、気配り上手な天才なんているわけないよね。ご多分にもれず、彼は、マイペース。コンピュータの父、ゲーム理論創始者でもあるフォン・ノイマンをはじめ錚々たる教授たちとのやりとりにも、彼の傍若無人ぶりが伺える。そして、まだ知名度の低かったMITに請われて数学科の講師となる。

 

最初の恋人に子どもを産ませても認知はせず、養育費も支払おうとしなかった。後に妻となったアリシアは、彼の才能に惚れてしまい、最大のファンとなる。傍から見ればひどい仕打ちもなんとか耐える。やがて彼が精神に異常を来たした時、ついに入院させることを決意する。どんなに恨まれようとも。

 

それから40年余り、いわば第一線から身を退かざるを得なかったナッシュ。生きながら伝説の人と化そうとしていたのだが、回復し、復活する。確かに、それは奇跡といえよう。天才といわれる人種は大抵が早熟で二十歳過ぎればただの人という印象が強いのだが、ナッシュは違った。

 

本人は寛解は、自助努力と述べているが、それだけではないことを、作者は綿密な取材を重ねて、書いてある。

 

品行や素行はどうあれ、その天性の素質を柔軟に受け止め、伸ばしてあげるアメリカの教育環境と、ある意味致命的ともいえる病気に陥っても、手を差し伸べカムバックへの道筋を用意していたプリンストン大学の教授やスタッフ、何よりも妻に敬意を表したい。

 

彼が精神病院に入院していた頃は、ロボトミーや電気ショック療法などが実施されていた頃であり、ケン・キージーの『カッコウの巣の上で』が書かれたのと同時期で、彼の明晰な頭脳がボロボロにされなかったことは、ほんと、幸いなことだ。

 

本作はロン・ハワード監督により映画化され、こちらはアカデミー賞に輝いた。ラッセル・クロウが演じているのだが、本作に掲載されている写真を見る限りは、若い頃のナッシュに良く似ている。ナッシュも人並みはずれた頭脳とマッチョな体躯を兼ね備えていたようだ。

 

ビューティフル・マインド」とは、数学の新しい理論の解明に挑むナッシュのイノセントな心であり、夫を信じ続けた-途中、揺らぎかけたことはあったが-妻の心でもある。

 

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どこからどう読んでも、紛れもなく、今の恋愛小説である

 

 

『プラットフォーム』ミシェル・ウエルベック中村佳子訳を読む。

 

文化省でアート関係の企画に従事している四十歳過ぎの男、ミシェル。一年前、父親が死去してまとまった額の遺産が入ることになっている。父親が健康、スポーツおタクだったのに対して、彼は丸っきり正反対。自分の人生に何の期待もせず、束の間の享楽を愉しみながら、淡々と生きている。

 

物質的に豊かな西欧社会の中でも、そこそこ経済的に恵まれた独身中年男性の、なぜか満たされないライフスタイルを覗くことができる。

 

ミシェルの延々と続く饒舌なモノローグは、セリーヌの小説のようでもあるし、ゴダールの映画のようでもある(ぼくのレビューのようでもある?)。

 

そんな彼がツァーでタイを訪ねた時に、その同じツァー客だったヴァレリーと知り合う。はじめはそうでもなかったのだが、日増しに彼女への思いが強くなっていく。それまでは、さんざん世の中に、悪態をついてきた彼-いろんなものへの悪態ぶり、毒舌ぶりが相変わらず冴えている-だが、いざ彼女とパリで再会して、つきあい始めるとぞっこんマイってしまう。

 

彼は、ようやく待ち望んでいた女性と出会えたことを確信する。愛なんて!と冷笑していた彼と、なかなか自分の心を開くことができなかった彼女。一緒に暮らし始め、互いにこの上もない平静さを見出す。

 

ヴァレリーは旅行ツァーを企画立案する会社の有能なキャリアウーマン。斬新なツァーを発表して、ヒットさせては、自分自身の価値とそれに見合うギャランティーをアップさせている。二人は、新しいツァーのリサーチも兼ねてキューバを旅行する。

 

タイやキューバの旅のシーンもふんだんに描かれ、そこそこ旅情も味わうことができるし、フランスの旅行会社の内幕も知ることができる。

 

ひょんなことから彼が発案した究極のツァーの下見に再びタイに出かけ、彼女は、この地を終(つい)のすみかにすることを決める。そこで悲劇が起こる。ラストは述べられないのだが、偶然とは言え(あるいは作者の時代を嗅ぎ分ける優れた嗅覚かもしれないが)、現在の重苦しい雰囲気を表現しており、主人公の哀しみが、とても他人事のように思えない。

 

フランスでは反イスラム小説、アジア人蔑視、女性を性の商品と見なした小説として物議を醸したそうだが、それは瑣末なこと。だって小説なんだからさ。男と女、愛、セックス…。ストレート、真っ向勝負、ぐいぐいと読み手を引っぱって行く。どこからどう読んでも、紛れもなく現代、今の恋愛小説である。


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「テクストとは、無数にある文化の中心からやって来た引用の織物である」

 

 

『掠れうる星たちの実験』乗代雄介著を読む。

 

評論から書評、短編小説まで、てんこもりの内容。

表題にもなっている評論『掠れうる星たちの実験』では「サリンジャーの戦争体験と柳田國男の恋」に通じるものについて述べている。サリンジャー柳田國男、作者が影響を受けた人だが、似ているとは思わなかった。

 

サリンジャーの兵役による戦争体験。それはPTSDのようなもので作品に大きな影を与えている。すぐ思いつくのは、グラース家の長兄、シーモアの不可解な自殺で終わる「バナナフィッシュにうってつけの日」とか。

 

柳田國男田山花袋と文学仲間で親友だった。柳田は文学から離れ、農務官僚となる。官僚時代にたずねた日本各地や人々の生活や歴史に興味を覚え、民俗学へと進む。田山は柳田の恋愛小説を書くが、ネタは本人から提供されたものだという。しかし、民俗学者から見れば田山らの日本の自然主義文学は、とうてい認めるものではなかったと。

 

当該箇所引用。

 

サリンジャーにとって最も重要なのは、博物館の見学者が「いつも同じではない」のと似て、読み手が、どんな状況に書き手があるかをいかに確信できるか、もしくはその反対に、書き手がどんな状況に読み手があるかを確信できるかということだった。それは、生きた「もの」へ通じるための小説である」

 

柳田の場合は、「生きた「もの」へ通じるための」聞き書き民俗学なのだろう。

 

「生きた「もの」の「実験」こそが「事実」であることは紛れもないが、それを書いたものは「事実」ではなくなる場合がある。「誤って真なりとして居たこと」が後で「正しい」とされるのは問題だと、ここでも柳田は繰り返している。
告白嫌いとも言われる柳田だが、その根底にありのは「実験」と「筆で書く話」の「対立」に対する強い自覚である。そこい無自覚であった日本的な自然主義が好ましいはずもなく、その態度において柳田とサリンジャーはますます似てくる」

書評は28本載っている。カテゴリーはバラバラ。書評、特に小説の場合、あらすじを踏まえての感想を述べるのが通常だが、なんつーか作家になるためのトレーニング的書評ではないだろうか。そう決めつけると長めの引用があるのも納得。読んでみたい本も何冊か教えてもらったし。


ぼくも趣味で書評らしきものを書くが、引用だけでいいんじゃないと思うことが多々ある。素晴らしいフレーズ、素晴らしいパラグラフ。作者の小説も引用が多い。ま、それが個性なのだが。

 

短篇『フィリフヨンカのべっぴんさん』には、叔母の死が描かれている。これが、その後「阿佐美家サーガ」に発展する。いわば、原型的短篇。どのようにふくらんでいったかを知ることができる。

 

引用に関してバルトの金言があったはず。あ、これ、これ。

「テクストとは、無数にある文化の中心からやって来た引用の織物である」―ロラン・バルト『物語の構造分析』「作者の死」より

 

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哀しくてやりきれない

 

 

素粒子ミシェル・ウエルベック著  野崎 歓訳を読む。

 

確か、村上春樹のエッセイで知ったと思うんだけど、あのクルト・ワイルが作曲し、フランク・シナトラが歌った『セプテンバー・ソング』のような小説だ。おしまい。ってのは、駄目かしらん。ここでわかってしまった人は、こっから先は読む必要な~し!

 

人生のセプテンバー(秋)を迎えた異父兄弟の物語。語弊があるか、そう痛感しているのは、兄だけかもしれない。国語教師をしている兄(ブリュノ)は、全身性器のような、性欲命という本能むき出しの男。弟(ミシェル)は、穏やかでクール、脳ミソの代わりにC.P.U.でも入っているんじゃないかと勘繰りたくなる優秀な生物学者。もっぱら兄貴のイタセクスアリスが軸に、弟の話と交互に描かれているんだけど、結構、ポルノ。

 

その時々のフランスのと、いうよりも、世界的に流行ったカウンターカルチャーが出てくる。コミューン、ドラッグなどのヒッピー文化からニューサイエンス、ニューエイジ。日本だったらさしずめ、中津川フォークジャンボリーへ参加して、新宿風月堂でお茶してってとこなのかな。よーわかりまへんが。

 

お懐かしやアンガージュマンサルトルからイブ・クラインのパフォーマンスよろしく窓から投身自殺したドゥルーズ、フィリップ・ソレルスまで登場してくる。ソレルスに兄貴は小説を持ち込むが、やんわりとソフィスティケートされた応対で掲載を拒否される。

 

ウィメンズ・リブがもたらしたものは何か。それは、精神まで萎えてしまった心優しき(または去勢されてしまった)男どもを出現させたこと。なんて言っている兄貴。俗物っぽくて不良インテリゲンチャには、好感を抱かれることだろう。弟君は、キャラ的に女性に人気なんだろな。

 

小説ってこんなに自由に書いてもいいんだ。なんかぼく自身、小説という型にガチガチにはめられていたことを知った。地の文があって、会話があって、起承転結があって…という。時々出てくる物理学や遺伝子工学についての記述は、科学書を思わせる文体になったりしていて、温度差があるのだが、まったく気にならずに読み進むことができる。

 

で、やはり、エピローグが優れている。グッときた。どうきたのか、佐倉統風に言えば、弟の発表した論文により、ついにはミームが遺伝子をコントロールする時代になったことを書いているからだ。

 

20世紀後半の西欧やそこに生まれついた知識人を総括している気がするが、そこには哀しみを殺しながら生きている普遍的な人間の姿がある。

 

冒頭で『セプテンバー・ソング』で人生の秋って書いたけど、ロシアのウクライナ侵攻や右傾化に歯止めの利かないEC諸国を見ていると、人類も秋を迎えているのかと考えざるを得ない。

 

兄と弟に取り巻く小さな死から大きな死まで、ともかく死のにおいに満ちている。それは、エロスよりもタナトスと言うべきなのか。ともかく、不思議な味わいの小説だ。読んだ後に、さまざまな断片が、心のあちこちに突き刺さった。


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ラルフ、お主もワルのよお~

 

 

『殺す手紙』ポール・アルテ著 平岡敦訳を読む。

 

密室殺人と名探偵を封印した作品。
ええと、「巻き込まれ型サスペンス」というカテゴリーに含まれるそうな。

 

主人公はラルフ・コンロイ。元英国諜報部員。
ラルフの妻、ジョゼフィーンとは折り合いが悪かった。
その日も妻が彼の承諾を得ずに、
難民となったポーランド人の女性を家で世話することを決め、ラルフは猛反対。

諍いとなり、彼が家を出た直後、ドイツ軍の空襲に遭い、亡くなった。

 

悔やんでも悔やみきれない。終戦後、傷心の日々を送る。

パブで元同僚・友人であるフィリップとジェフと一杯飲ることに。
束の間、気分は晴れるが。

 

翌日、そのフィリップから手紙が届く。
内容は謎めいた依頼だった。彼は依頼のように行動を起こす。

その途中、ある女性の姿を見かける、何を隠そう、ジョゼフィーンだった。

 

途中、警官の職質を受けるが、ようやく目的地の家に着く。
不可思議なパーティが催されていた。
主催者は資産家のアーサー卿。
パーティに参加していた資産家ジェイムズ・ペルダー、その娘アンなど。
そこで彼はロビンソンと呼ばれる。

そこで牧師のラッセルが殺される。ラルフは殺人の容疑をかけられる。

迅速に脱出をして真相を探ろうと躍起になる。

実は殺人事件は、アーサー卿の趣味である殺人ゲームだった。

 

ところが、今度はジョゼフィーンの兄・リチャードが殺された。
これはお遊びではなくモノホン。

 

事件を調査中、ジョゼフィーンの不貞を知る。
彼が戦時中、ロンドンに不在だったときだ。その相手がなんと。

彼が見かけたのは本当に亡き妻だったのか。

次々と隠されていたベールが外される。

 

話は目まぐるしく展開するが、とどめはラルフの告解。
ああ、そうきたのね、アルテ先生!
ラルフ、お主もワルのよお~

 

訳者あとがきによると手紙のアイデア

ジーキル博士とハイド氏』に出て来る「ラニョン博士の手記」からだそうだ。
あとは、ケン・フォレットの『針の眼』からも。
ネタバレになるので言えないが、ああそうかと。
ぼくは本ではなく、ドナルド・サザーランド主演の映画版を見たが、良かった。

 

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