学校、ツライ、先生、トライ、生徒、ミライ

 

 

『学校するからだ』矢野利裕著を読む。

 

作者って音楽評論家や文芸評論家と思ったら、高校の国語の先生でもあったのだ。で、この本は、先生として学校や教育制度、学生などについて感じたことを述べている。
ま、体験ルポだよね。

 

遥か昔、自分が高校生だった頃、十数年前、子どもが高校生だった頃と変わらないところ、変わったところ。

 

かつては教職は聖職といわれ、ある先生は、自身の家庭生活を犠牲にして部活動をサポートしたりした。ところがだ、昨今流行の言葉で言えば「タイパ」「コスパ」が悪い、まるでブラック企業のように若者から忌み嫌われ、なり手が減っているようだし。


それと叱咤激励が「パワハラ」、スキンシップが「セクハラ」と思われ、メンタルやられて辞めてしまう若い先生もいるとか。


面白かったところを何点か紹介。

 

〇「サッカー部新米顧問」となって控え選手に経験を積ませようとレギュラー選手を外したら、抗議を受けた。そんな理由でレギュラーから外されないよう必死こいてるぼくらにも失礼だし、サブの彼らにも失礼だと。

 

〇ともかく休みなしの練習の日々。メリハリをつけようとオフの日を提案したら、これまた猛反対。傍で見ているのと、実際とでの違いを感じる。

 

〇教室では目立たない女の子が、実は日本のインディーズロックやオルタナロックに詳しいことを知る。そんなことまで知っていて、年、いくつなんだよお。作者は音楽評論家でもあるので、驚きながらも親しくなる。彼女はバンド活動もしていた。

 

〇「学校教育で求められる身体が、基本的に「合図とともに動く身体」だということだ。―略―学校で流れる音楽は、どんなに楽しそうな曲であっても、本質的に集団を統制するものとして機能する。ダンスは学校教育と関係が深いといっても、そのとき言われるダンスとは、もっぱら統制的な身振りなのである」

 

〇ところが、作者が見たダンス部のパフォーマンスは違っていた。
ブレイクダンスやヒップホップのダンスは、バックの音楽から少しズレたところにクールなかっこよさが生じる。ただ音楽に合わせるだけでは、お遊戯的な振り付けにしか見えない。―略―それは、学校的な「合図とともに動く身体」と似ているかもしれないが、決定的に異なるものである」
「学校教育に真正面からアンチを突きつけるような、「ズレる身体」のパフォーマンスこそが、学校的な日常を生きる高校生たちの心を奪うのではないか」

 

パリオリンピックで見たブレイキングの魅力も、そのあたりにあったのか。

 

〇学校の存在意義
「わたしたちは「単に知識を得る」以上のなにかを学校に見出している、ということになる。―略―僕の立場からしたら、それは身体的な交流ということになる。生徒・教員はじめさまざまな人が、それぞれの身体で生き、それぞれの身体で交流する。そのような身体の水準での交流によって、お互いが影響を与え合う」


ぼくも大学時代は一応、教職取っていたんだけど、授業が一限(午前9時はじまり)のものが多くて断念した。

 

どうやら作者は、RCサクセションの「ぼくの好きな先生」のような先生であるようだ。

この本をベースにクドカンあたりが脚本にすれば、令和版「坊ちゃん」か令和版「教師びんびん物語」になるかもしれない。

 

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