「仏教の創始者」であるブッダを原点、原典から再考

 

 

ブッダという男-初期仏典を読みとく-』清水 俊史著を読む。

 

「およそ2500年前、インドとネパールの国境付近にあるルンビニの地に、ゴータマ・シダッダは生まれた。彼は武士階級の出身であり、若くして世を厭い出家した。当時のインドでは、司祭階級が支配する伝統的なバラモン教に対抗する沙門と呼ばれる自由思想家たちが闊歩していた。彼もその一人として道を求めて修行し、35歳で悟りを得て、ブッダと呼ばれるようになった。このブッダという男は、それまでのインドを否定し、新たな宇宙を提示した先駆者であった」

 

「仏教の創始者ブッダ。お釈迦様のこと。なんとなく知っているようで、実はよく知らなかった。

 

「本書では、1.ブッダは平和主義者であった、2.ブッダは業と輪廻の存在を否定した、3.ブッダ階級差別を否定し、平等思想を唱えた、4.ブッダ女性差別を否定した、という4つのありがちな現代人ブッダ論を再検討し、そのいずれも歴史的文脈から外れることを明らかにしてきた」

 

「ここで我々は、次の事実に気がつく。すなわち、古代から現代にいたるまで、「歴史のブッダ」ではなく、「神話のブッダ」こそが人々から信仰され、歴史に影響を与えてきたということである」

 

いわゆるブッダへのイメージをはがして、既成概念という埃を払う。「奈良・東大寺の「大仏さまお身拭い」」のようなものか。初期仏典にあたって、改めてブッダとは何者だったのか。何を目指していたのかを探る。

 

みながみな、わかったものではないが、ぼくなりに得たものがあった。「神話のブッダ」を作者は批判していない。

 

「今を生きる我々が、伝統的解釈を否定して、初期仏典から「歴史のブッダ」と名づけられた「神話のブッダ」を新たに構想することは、決して無意味な営為ではない」

 

長めの引用。

ブッダは、個体存在を分析しそれが五要素から成り立つこと、しかもその要素すべてが無常であり苦であるから、バラモン教ジャイナ教が想定するような恒常不変の
自己原理など存在しないことを主張した。これが無我説である。その無我なる個体存在は、原因と結果の連鎖によって過去から未来へに生死輪廻し続けているのであり、この連鎖が続く根本的原因は無知である。したがって、悟りの知恵によって無知を打ち払い、すべての煩悩を絶てば、輪廻も終局する。ブッダは輪廻を引き起こす主要因が業であることを認めながらも、煩悩こそが業を活性化させる燃料になっていることを突き止めた」

 

「すなわち、瞑想を通して個体存在や現象世界を観察し、一切皆苦(現象世界のすべては苦しみである)、諸行無常(現象世界を構成する諸要素は因果関係をもって変化し続ける)、諸法無我(一切の存在のうち恒常不変なる自己原理に相当するものはない)と認識することこそが悟りの知恵であり、これによって煩悩が断たれて輪廻が終焉するのである」


要するにブッダ、仏教はパラダイムシフトを実現したのだ。

 

その昔『広告批評』というリトルマガジンがあって、「キリストはコピーライターだった?」という特集があったことを思い出した。キリスト教ユダヤ教がネタ元であるように、ブッダとて初期仏典をベースに、仏教をいかに当時の人々にアピールする教義にするか、文言にするか、思案したと思う。不謹慎かもしれないが。

 

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