デジタル音楽全盛、なぜか、でもレコードが人気

 

 


『音楽未来形 デジタル時代の音楽文化のゆくえ』増田聡・谷口文和を読む。

とりあえず気に入ったところ。

 

「哲学者のヴィレム・フルッサーは「写真の哲学のために」の中で、テクノロジーについて「機械」と「装置」を区分している。「機械」とは人間の身体能力を拡張し、増幅する技術であるのに対して「装置」とは人間の認知能力、すなわち情報処理を拡張するテクノロジーを指す」

 

CCCD(コピーコントロールCD)騒動にもふれているが、ノド元過ぎれば何とやら。アナログレコードをこの世から抹消しようとしたのは、確かソニーで、ソニーが音頭をとってCD化、すなわちデジタル化を進めてきた。いわく、デジタルtoデジタルなので音質が損なわれないだとか。その後のMDは、結局、ソニーの思惑通りにはいかず、先年のCCCD騒動で評判を下げ、いまはiPodの後塵を拝している。

 

MP3などの普及、最近ではスマホでサブスク(配信)かな。音楽は「パッケージ・メディアはもういらない?」といわれつつある。いるんじゃね。愛蔵盤。本というパッケージ・メディア(紙の本)は、不滅さ(願)。

 

ニール・ヤングだっけ。「mp3はクソだ」と名言、吐いたのは。

 

「「アウラ」とは、芸術が芸術として存在していることの謎のようなもので、そのかぎりでは対象から発散するともいえる。しかし、アウラを感じるかどうかは社会的な条件に依存するから、われわれが集団内で芸術に抱く信念というほうが妥当である。ここではむしろわれわれが芸術文化内にたいして抱く一種の共同幻想として考えておこう」(多木浩二『複製技術時代の芸術作品』)

 

このあと、「生の音楽」と「レコードの音楽」(複製の音楽)の対比になるのだが、いま風にいえば「リアル」と「ヴァーチャル」ってことで、興味深い記述が続く。

 

で、「原音」って言葉がでてきた。ナツカシー。音響機器の大常套句。いかに臨場感あふれる生の音に再生できるかが、オーディオマニアおよびオーディオメーカーの永遠の課題だった。

 

ところが、ミュージシャンたちによる「生の音楽」に代わって「レコードの音楽」などを素材にしてサンプリングやリミックスなど音の編集・再加工による音楽が台頭してきた。そもそも楽器自体が電化・デジタル化しており、それでも「生の音楽」「原音」再生なのか。

 

シンセサイザーでホーンセクションやストリングスなどの代行をしていると、昔は、マジ腹立ったけど、いまは全然OK。

 

生音にいかに近づける、そうじゃなくて、レコードならレコードで独自の領域を切り拓く。それがコンサートを開かず、スタジオ録音のみの演奏に終始したグレン・グ-ルドであり、後期ビートルズであり、『ペットサウンズ』以降のビーチボーイズのバンマス、ブライアン・ウィルソンであると。

 

引用あるいは剽窃、あるいは骨抜きにされ、再生された音楽を聴いても、実際、ベンヤミンいうところの「アウラ」や、それこそ「クオリア」を感じるときは感じる。

 

ドンカマ(リズムマシーン)のパンクチュアルなリズムを、延々と聴いていも心地よくなるし、わけのわからないおかずがたっぷり入ったドラマーが叩く変則的なドラミングを聴いても心地よくなる。

 

追記

この本が出た当時、レコードは過去の遺物的扱い(オワコン)だったが、それがどうだ。最近ではレコードが売れているらしい。証拠あんのか?あるよ!

www.nikkei.com

 

人気blogランキング