J.J氏、1970年の日記

 

 

植草甚一読本』 植草甚一著を読み返す。特に日記を。何度目だろう。


J.J氏を生前、渋谷で2度見かけたことがある。2回目のとき、追跡してみることにした。小柄で仙人のような風貌をしたJ.J氏は、ゆっくりとセンター街から、恋文横丁方面へと向っていく。恋文横丁は、その昔、日本女性が恋人のG.Iに渡すラブレターを翻訳する店があったことに由来しているのだが。

 

いまもある台湾料理店「麗郷」のはす向かいの袋小路に洋書の古書店と古着屋があった。そのあたりまで尾行したはずなのだが、そこからぼくは細い坂を上って、中途にある「ミウラ&サンズ」(ビームスの前身)を冷やかしたか、「ムルギー」でカリー大盛りを食べたか、ロック喫茶「ブラックホーク」に行ったかもしれないが、記憶は忘却の彼方へ。

 

久方ぶりに、この本を取り出してペラペラとページをめくる。そこに1970年の日記が収録されている。とりあえず引用。


「 六月十三日(土)晴

四時半に起き、毎日の原稿を書きはじめ、十時に出来る。一時頃まで寝て、四時まで冷房かけながら、バージェスの現代小説論を読む。それから十時半まで渋谷で古本、いろいろ取りまぜ二十二冊、すこし重い。コーヒ屋に二軒よる。帰ってバージェスを読みつづける。面白い。」

 

こんな感じの365日。要するに身辺雑記なのだ。そこにはイデオロギーはない。社会批判もない。依頼原稿をこなして、趣味のコラージュをして、散歩がてらになじみの古本屋で洋書などをしこたま買い込んでは、喫茶店でコーヒーを飲む。時には、ジャズのコンサートや映画の試写に行く。ファンでない人には退屈かもしれない。ぼくはむさぼるように読んだ。


しまいには、同じ月日にJ.J氏が何をしていたか。なんていう読み方までするようになってしまった。ほとんど、ビョーキ。

 

J.J氏がなぜ、当時のサブカル青少年をトリコにしたのか、明解な理由はわからない。ブームとはそういうものだし。1970年代、学生運動にザセツした若者層の意識が、社会から個人へとベクトルを転向させた。その教祖の一人が、著者だった。これは、あとづけ理論であって、どうでもいい。大衆とか時代なんて常に気まぐれだ。

 

「好きなことを続けていれば、なんとか食えるようになる」とかって、かつての「宝島」(表紙が大橋歩のイラストレーションで編集長が小泉徹、またの名を北山耕平時代のヤツ)のインタビューで答えていたJ.J氏の一言を、単細胞のぼくは、カッコイイ!と思った。

 

似てるかどうかは知らないが、氏の生き方や文体には随分と影響を受けた。絶版らしいので、古書店か、ネット古書店で探してみるしか手はない。


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