日本人には「公」(パブリック)の意識が欠落している

原発事故はなぜくりかえすのか (岩波新書)

東日本大震災の起きた日なんで『原発事故はなぜくりかえすのか』高木仁三郎著のレビューの再録。


かつて勤めていた広告代理店の所属していた制作ルームで隣りのチームが総理府政府広報を担当していた。その当時は、毎年課題が何点か出題され、文章はもちろん、写真もバッチリ、デザインきっちりの原寸大の新聞広告を提出して、その出来栄えで年間の出稿の扱いを決めていた。課題の中に原発も入っていた。ヤクザみたいな担当クリエイティブディレクターと昼飯を食べながら、原発の話に及ぶと、要するに、いままで日本で原発の事故は起きていない。だから安全なんだ。というワケのわからないものが、おカミの言い分だったようだ。

 

その直後にチェルノブイリ事故が起こり、十数年後に、日本でも東海村のJOCの臨界事故が起きた。そして2011年3月11日東日本大震災による巨大な津波福島第一原発では「原子炉建屋で爆発が発生して放射性物質が放出、周辺住民が避難を余儀なくされ」現在に至る。いままで起きていないから、大丈夫。危機管理ゼロ。そのことに警鐘を鳴らし続けてきたのが作者である。これって、狂牛病の時もまったく同じ発想だったが…。

 

本書でも作者のメッセージが、痛切に伝わってきた。「原発事故はなぜくりかえすのか」の問いに対して、それは「議論なし、批判なし、思想なし」と、にべも無い。最初に原子力産業ありき。田舎に高速道路を造る発想とおんなじようなものだろう。国策として機が熟さないうちに、とりあえず立ち上げてしまった経緯がよくわかる。

 

原子力産業側が出している雑誌で寄稿している関係者に見られる「我が国」という書き方や発想の根底にある大義名分的なものは止めて、あくまで個人レベルでの意見や主張を述べよう。「化学屋」も机上の理論や計算だけでなく現場を知ろう(ヴァーチャル・リアリティへの過信を危惧している)。それに付随して最も感銘を受けたのは、「4 個人の中に見る「公」のなさ」の章だ。要するに今の日本人には「公」(パブリック)の意識が欠落しているという。

 

「会社や組織の中で仕事をしているうちにだんだん普遍性イコール公共性ではなくなってしまい、普遍性イコール没主体性、没主体性イコール没公共性ということになってしまいがち」であると。


作者は技術者を鎌倉時代の仏師にたとえて、こう述べている。


「(技術者は)大きな組織に属していても個人の個性というものが非常に大きな意味を持つし、その個性というのは、単に自己を表現することではなくて、ある種、公的な性格を持ち、どこかで公益という大きなものにつながっている」

 

これって、すべての職業の人に共通して言えることだよね。読んでいて身が引き締められるような気がした。しかし、もう、作者の新たな文章を読めないと思うと無念でならない。合掌。

 

補記

そして原発は再稼働へ。新設もか。福島第一原発の汚染者処理水は海洋放水へ。

 

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