驚きと懐疑

生命の哲学―“生きる”とは何かということ

生命の哲学―“生きる”とは何かということ

『生命の哲学』小林道憲著、だらだらと読書メモ。

いきなり哲学者や思想家などの書いた原典に当たり、理解不能で撃沈。
二度と読まない。そんな玉砕経験をお持ちの方に、
その著者の対談集や講義録から一読することをお薦めする。
著作は書き言葉なのでこ難しい言い回しや長いフレーズなど
作者の文体のクセ(個性)に振り回されることがままあるが、
対談集などはかなりブレイクダウンしている。
たまに著者校で思いっきり赤が入って、そうでないのもあるが。
そこから入るとある程度、その人の考えがわかるので、
いきなり読むよりはかなり理解度が違うはず。

この本は、小林哲学のいわば入門編。
「現代」「古代」「生命」「倫理」「宗教」の章から成り、
作者の長年考えた哲学が提示されている。
語りおろしなので、書き言葉ではなく話し言葉でやさしく書かれている。
各章がリンクしていることは言うまでもないが、関心のある章から読み進めても構わない。
で、それぞれの論考を各著作で当たってみよう。

そも、「哲学」(philosophia)の語源は、知(sophia)を愛する(philos)ことだそうだ。
この知とは単なる知識ではなく智恵や叡智の方。
作者はこう述べている。

「一般に、現代では、知識人の世界が、自分の専門分野にのみ閉じこもって
他を顧みない単なる専門家か、大衆化の流れに迎合して、
大衆の言って欲しそうなことを言うにすぎない単なる道化か、
いずれかになってしまう傾向が見えます」

手厳しいが、そうかもしれない。換言すれば、

「大衆化と専門家という現代社会の大波から、哲学も逃れられてはいません」

「今日の哲学に最も必要なことは、この道化の野蛮性と専門家の野蛮性という
二つの堕落傾向を克服することです」

そのためには、どうすればいいのか。

「哲学の出発点である事柄への驚きとあらゆる知識への懐疑に立ち帰り、
主体的に、世界と人間の根源的真理について思索することによってのみできることなのです」


タイトルの『生命の哲学』というと生の哲学ベルクソンあたりを想起するのだが、
それこそクイズ的な知識でね、果たして作者がベルクソンに言及している箇所が出てきた。

「生命の時間は、ベルクソンの言うように、持続なのです」

「持続とは、単に一定のものが変わらずに存続することではありません」

「生命体は、また、代謝によって、古くなったものを廃棄し、
新しいものを取り入れ、個体を形成していきますが、この過程は、過去から未来へ、
常に自分自身を成熟させていこうとする努力によって成り立っています。
その努力こそ、持続なのです」

昨今の学生の課題や論文に対して、コピペは安直だし、
引用よりも剽窃に近いものがあるから怪しからん。と、先生や教授は言う。
なら、せっせと読み込んだ書物の断片をコラージュみたいに編纂した知識は、
コピペとどう違うのか。とも素朴に思う。

知ることはクイズとは違う。ジャーゴン(専門用語)を覚えて悦に入ることでもない。
「驚きと懐疑に立ち帰る」ことだ。
どうする。孤独に耐えて考えろ。言うは易し。
良い意味でも悪い意味でも大量に情報を浴びることに、
鈍感になっているいまの人たちには、困難かもね。
ウォールデン湖で一人暮らしの自給自足をしつつ思索を深めたソローのようにかい。
ネットで同好の仲間たちとワイワイやっている快適な島宇宙を離脱してかあ。
できるかなあ。PCを閉じて、自分を開け。できるかなあ。


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