パラダイム銀河

ポパー』小河原誠著、読了。ためになる本だった。
ポパー先生は守備範囲が広くて、ヴィトゲンシュタイン以下いろんな人と論争した。
言説は明解でありながら、その実は明解ではない。バタイユとは真逆な人か。
巻末の『主要著作ダイジェスト』で取り上げられていた『脳と自我』を読もうと、
図書館のWebで検索したら、貸し出し中だった。残念。予約しよっと。
引用二ヵ所。


小さな国家とパターナリズム

第三者が危険にさらされないかぎり、各人は、自分なりの仕方で幸福に
なることも不幸になることも自由であるべきであるが、国家は、市民かが自ら
判断しえないところの回避可能な危険に説明も受けずにさらされないようにする
義務があるという私[ポパー]が受け容れている形でのミルの原則は、
福祉国家に対するそれ自体非常に重要な批判に、小なりとはいえ貢献しうる」


「彼[ポパー]は小さな国家の理念からすれば、社会保険は個人のレベルでなされるべきだと
主張している」。財政破綻した夕張市の例をあげるまでもなく、結局は公共体の失敗のツケは、
市民、国民に回ってくるのだから。

パラダイム論への反駁  フレイムワークの神話

論理的、あるいは哲学的なレベルでの反論としてまずポパーが指摘するのは、
パラダイム転換は新旧パラダイムの断絶のみをもたらすのではないという点である。
たとえば、アインシュタインの理論は、ニュートンの理論といくつかの点で矛盾するが、
他方でニュートンの理論をみずからの理論にとっての近似解として許容する。
ここにあるのは科学理論の発展における断絶と継承ということであって、
累積的発展のみがあるのでもなければ、パラダイム論者のいうように
断絶のみがあるのでもない。」


パラダイム論者」が「断絶」を主張するかどうかは、ぼくは知らないが、
解釈やスタンス、視点の違いというのか、そういうものを感じる。
いい意味でも悪い意味でも系統樹的に連続しているのではないだろうか。
断絶もまた、連続の一つの突然変異である。


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