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バタイユという思想家は、いろいろな顔がある。
かつてぼくは大学の卒論で果敢にも主に文学者の視点からとらえようとしたが、その範疇にはおさまりきれなかった。
ここ最近になって、ジャン・リュック・ナンシーやジョルジュ・アガンベンの著作を読むと、バタイユの影がちらちら。
バタイユ入門書を読んでみて、どんな顔が見えたのかをざっと書き出してみる。
○「近・現代産業社会では、資本=貨幣を所有する人々が生産(流通・消費)過程を主導し、「社会の同質的領域」を基礎づける。いわゆる中間階級も、この同質性に包含される」
「しかし、ブルー・カラーの労働者や下層庶民たちは、曖昧な両義性を示す。彼らは一方では生産(流通・消費)過程に組み込まれており、尺度を受け入れている」しかし、「工場の外、作業現場を離れたところでは、労働者大衆・下層庶民は、
「同質的な」人間たちにとっては一種の<異邦人>、「別種の」人間だ。
規範や法に従うとは限らない人間、「合理的に考えて」行動する仕方から
すぐに逸脱しやすい人間、なにか荒々しさをおびている人間だ」
○「バタイユの見方では、資本制生産(流通・消費)過程が安定して拡大する限り、こうした<同質性>は揺るぎなく保たれる。つまり、そこから排除された部分、マルジナル化されたエレメントは抑え込まれたままだ」
「しかし、大恐慌による資本主義経済の破綻、大混乱は、社会の<同質性>が揺らぎ、亀裂を受け、分解する危機をもたらした」
「この危機に敏感に反応し、「克服」しようとする運動の一つがファシズムだ。むろんもう一つは「共産主義」的な革命運動である」
「労働者大衆・下層庶民」は無党派と近似値と思ってよいのでは(裏付けデータはないが)。
○「バタイユの見方では、<愛の関係>は私と他者とがつねに向かい合う関係である。<愛>は他者の愛を愛し、その欲望を欲する。しかし「他者に承認される」のを求める欲望(ヘーゲル)とは微妙に異なる。<愛>における欲望は自己を消尽する欲望であり、獲得や所有の欲望ではない(変質することもありうるが)。<愛への愛>は、私が抱く意図や志向ではない。<対>の共同性のなかにいる私にとっては、この相手は「私が秘められている」よりもつねにもっと秘められている、という不思議な在りようをしている」
「消尽」はバタイユのキーワードの一つで作者は「消尽=贈与」としている。
カノジョに何を与えるのか。小金を持っている中年オヤジにとってはマンションやブランド品だったり、貧しき若者男子にとっては詩篇やオリジナル楽曲だったり。
贈与という行為においては等価なのである。
○「バタイユの考えでは、<恋愛>が深く生きられるとき、主体は「主体」としてとどまることはなく、対象もまた通常<対象が位置している面>にとどまらない。それゆえ<愛の関係>が白熱するとき、まるで主体と対象とのあいだには一種の合一が起こるように思える。一見すると、愛する者同士の共同性は、いかにも一致や一体化が生じる共同体であるかのように信じられる」
「共同性を持たない者たちの共同性」って具体的にいうと、上野千鶴子が唱える「選択縁」もその一つなのだろうか。