ほんとうの「正しさ」にたどり着くためには

 

 

『「みんな違ってみんないい」のか? 相対主義と普遍主義の問題』 山口裕之著を読む。

 

「みんな違ってみんないい」って金子みすゞの詩のフレーズが独り歩きしたものだと思うが、支持する人は多いはず。かくいうぼくも、その一人。それから「正しさは人それぞれ」。これも多様性や多元的価値観を認めたものでよろしいと思うのだが。

 

ところが、作者は「ちょ待てよ!(byキムタク古い?)」と疑問を投げかける。
こう述べている。

「つまり、「正しさは人それぞれ」や「みんなちがってみんないい」といった主張は、多様性を尊重するどころか、異なる見解を、権力者の主観によって力任せに切り捨てることを正当化することにつながってしまうのです。これでは結局、「力こそが正義」という、困った世の中になってしまいます。それは、権力など持たない大多数の人々―一部略―の意見が無視される社会です」

 

なんだろ。「正しさは人それぞれ」や「みんなちがってみんないい」が出た時点で判断停止、思考停止状態になるからかな。それではほんとうの「正しさ」にはたどり着けないと。なぜこう言えるのか、各章でその裏付けを試みている。

 

相対主義的一例」としてアメリカの文化人類学者マーガレット・ミードが著した『サモアの思春期』をあげている。

「「人間は生まれたときは白紙状態で、育ち方によって違いが生じる」「サモアでは少女は思春期において精神的な動揺を経験しない」と主張しました。しかし、後にフリーマンはミードの報告が事実とほぼ正反対であることを暴きました。さらにブラウンは人間の行動や社会のあり方にはかなりな程度の普遍性があることを示しました」

 

いわゆるタブラ・ラサ信奉。

「人間は白紙の状態で生まれて来るのではなく、動物の一種として、同じような身体と感覚器官や脳を持って生まれてきます。それだけでなく、人間の考え方や感じ方、ふるまい方など精神的な側面についても、かなりな程度、生物学的な習性が反映されているようなのです」

 

人間は社会的OSがインスト―ル済みの量産型。SFぽいか。で、こうも述べている。

「「人それぞれ」「みんな違ってみんないい」というほどには、人は違っていないと言えそうです」

 

ううむ。そうなんだけど、どこか釈然としない。LGBTQとか。

 

当たり前かもしれないが、きちんと考えて話し合って、物事をさまざまな角度から見ることがやはり大事なんだなと思った。意見の違いで対立することを怖がらず、めんどくさがらずに。正しい答えは、カップ麺のようにお湯を入れて3分待てばできあがりではない。相対主義か普遍主義かの二項対立ではなくて状況に応じて綱渡りしていく。

 

「私たちは相対主義と普遍主義の間の道を、どちらかに落っこちないように気をつけながら進まなくてはなりません」

 

ほらね。


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