いつだってもっと単純に生きられたら

 

 


『単純な生活』阿部昭著を読む。


いつか機会があったらこの本を取り上げてみたいと思っていた。小説が大量生産・大量消費される風潮が強い昨今、再読する本が書棚にある人は幸せだ。ぼくの場合は本書がその一冊である。

 

阿部昭は短編小説の名手として知られるが、平成元年54歳で急逝した。彼はTBS勤務時代に、文學界新人賞を受賞したが、そのデビュー作『子供部屋』以来一貫して家族、親・兄弟、生まれ育った湘南をテーマに作品を発表してきた。その佳作揃いの著作の中で(主なものは講談社文芸文庫で入手可―今は不可か)最も多くページを捲(めく)っているのが、本書である。

 

『単純な生活』は言うなれば身辺雑記、エッセーである。普段の生活から作者が感じとったものを掬(すく)い上げた短めの文章が全部で103、タペストリーのように書き綴られている。子供の成長、母の死、友人のこと、自分の病気など、誰もがごくごく見慣れた日常風景を淡い筆致で描いていく。劇的なことは何も起こらない。何も起こらないから、読み返す度にまた新たに好きな断片を発見する。一市井人(しせいじん)の静かな生き方に深く共鳴する。そしてその平明かつ自然な文体に魅了される。

 

単純とは何か。作者は、「複雑でないこと」、「裸」、この2点を挙げている。作者自身、単純な生活の実践者ではないことを明言した上で、「読者はわれわれはいつだってもっと単純に生きられたらという思いがあるのだということを思い出していただきたい。」(『断片三より一部引用』)と述べている。この件(くだり)は今の時代に、しっくりくるのではないだろうか。返す返す残念なのは、彼の新作がもう読めないことだ。存命であるならば、老いの心境などをどう書き記したのだろう。

 

特に仕事に、家庭に揺らぎがちな若い父親や母親に一読をお薦めしたい。意味もなく間延びした、たとえば2段組上下巻といった長編小説よりもきっと得るものが多い。精神安定剤として立派に機能するはずである。

 

昔、書いたレビューをアップ。

 

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父、母、息子、三つ巴の殺意―中華家族ノワール小説

 

 


『中国のはなし-田舎町で聞いたこと』 閻連科著 飯塚容訳を読む。

 

作者が母の誕生日のパーティーのため、郷里に帰る。宴が終わった後、とある若者が作者に自分の家族の隠された話を囁く。そこから話が始まる。

 

家族は河南省の田舎の町に住んでいた。中国の改革によりその恩恵を受けたり、商売が当たって金持ちになり、町は新築ブームに沸いていた。ところが、この家族、商売下手な父親は西瓜を売って、母親はマントウを売ってささやかな日銭を稼いでいた。家もみすぼらしい。宅地だけはあるが、いつ新築できるのか予定はまったく立たない。当然のことだが、中国人民みな、金持ちになったわけじゃない。


各章ごとにぼく(息子)、父親、母親が主人公となって家族や社会への不満そして「息子は父に、父は母に、母は息子に殺意を抱いた」経緯などが語られる。中華家族ノワール小説、いわゆる「暗黒小説」として面白い。えっ、殺意は抱いても、ほんとに殺すの。作者は、読み手をじらす。

 

第一章では、息子が語る。父親への恨み、つらみ、殺意の歴史を話す。息子はこの町にいても自分の未来はひらけないと、まずは中国の大学に進学した。町でも大きな話題となった。ゆくゆくはアメリカ留学をして成功することを夢見ていた。それには莫大な金がいる。親に夢を話したとてわかってはもらえない。息子の留学費用が払えるくらいなら、家の新築費用に回すだろう。注射で、かさを水増しした野菜を売るなどせこい商売で家を新築した通称・野菜じじいにダメもとで留学費用の相談をする。殺そうとはするが、結果的には未遂に終わる。しまいには理髪店にいる南方から来た女の子の色香に迷い、ねんごろになる。

 

第二章では、父親が語る。金持ちになって立派な家を建てたのはよそ者。貧乏くじばっかひいてきた彼にも運が回って来た。町一番の金持ちの電気店の奥さんが、名ばかり愛人になってくれないかと。夫は、愛人の元へ入りびたり。私も愛人をつくり、離婚して財産を半分奪いとってやると。家が新築できるくらいのお礼をすると。万が一、夫とトラブルが起きて大怪我したら一生面倒をみても構わない。親父の妄想はふくらむ。奥さんと再婚したら。それには女房が邪魔だ。どう始末するか。あれこれ考える。結構な額の手付金をもらったが、それを、なんと息子が婚約したというので女房はそれに使ったと。「別れてくれ」と言ったら、怒り心頭、家じゅうの茶碗を割ってしまった。電気店の奥さんは離婚を止めることになり、親父の計画は水泡に帰す。

 

第三章では、母親が語る。せがれが大学に行くときは、まるで出征するかのように町中の人が見送ってくれた。ところが、大学はインチキだった。息子はだまされ、入学金は一部が返済されたのみ。再び、アメリカへ留学したいと。何を抜かす。咄嗟に殺意が芽生える。北京の大学院で勉強していると言うが、違った。実際は、子どもができた。理髪店にいた娘が母親。挙句の果てに替え玉受験の一味になって逮捕、拘留。マントウ店を担保に借りたお金で保釈させる。せがれはすっかり都会人になってしまった。井戸に細工をして転落死させようとするが、息子は気が付いて井戸に落ちることはなかった。

 

第四章で、一家は、ついに念願の新居を手に入れる。ただし、水道も電気もない山奥。意外なことに家族は静かな暮らしに満足のようだ、いまのところは。殺さなくて、殺されなくて、ほんと、よかった。破滅的じゃない、破綻しない結末は作者の作品では珍しいのでは。


いつも素朴に思うんだけど、商売上手な中国人の国家体制が共産主義国家というのは、何か矛盾を感じる。イデオロギーと経済は違うって、どうもダブルスタンダードのような気がしてならない。

 

この作品は他の作品よりも読みやすいので、初めて読む人におすすめ。


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ほっこり、ドッキリ、ざわざわ、にんまり

 

 

『お城の人々』ジョーン・エイキン著  三辺 律子訳を読む。

 

メルヘンのような、怪談のような、SFのような…。異なるいろんなテイストが楽しめる10の短篇奇譚集。1日1篇ずつ読んでは、「なるほど」とか、「そうきたか」と感心する。しちめんどくさい人文系の本を読んで凝り固まった頭を、思いきりほぐしてくれる。こりゃ、他の作品も読まない手はないぞ。何篇かのあらすじや感想を。


『ロブの飼い主』
サンディは犬のロブ(シェパード)と仲良しになった。残念なことにロブの飼い主は、コーンウォールから650㎞の遠方にあるリバプールに住んでいる。ところが、ロブがそこからやって来た。飼い主に送り返すが、懲りずに、サンディに会いに、二度も。飼い主はロブをサンディの家族に譲ると。
9年が経った。サンディは成長し、ロブは老いた。サンディとロブが散歩の途中、トラックにはねられる。危篤のサンディの見舞いに病院に祖母が来ると、ロブがいた。病室のそばでロブが哀し気な声をあげると、サンディが目を覚ます。父親が言うには、ロブはトラックに轢かれて死んでいた。病院にいた犬は…。犬の健気さに涙が出そうになる。うちには猫が三匹いるが、そんな期待は毛頭できない。

 

『よこしまな伯爵夫人に音楽を』
「小さな村に」赴任してきたボンド先生。学校の古いピアノで弾く音楽に生徒たちはうっとり。「お城の伯爵夫人に聴かせたい」と。村の女の子は卒業後、「お城への奉公」にあがるとか。ところが先生には森の中のお城が見えない。先生のピアノ演奏はお城でも評判になっていた。
お城ではハープ奏者が斬首されて以来、無音状態。夫人はしもべの乙女に先生の捕獲を命じる。術をかけると大概の人間は捕らえられるのだが、なぜか、先生は、かからない。夫人自らお城へ誘う。念願のピアノ演奏。しかもオリジナル曲を演奏する。その「不協和音」の凄まじさ。ジャイアンの歌声並みか。塔が崩れかねない勢い。夫人も乙女たちも逃げてしまう。

 

『最後の標本』
月に一度しか礼拝が行われない聖アントニオ教会。今日も70歳になるペンテコスト牧師が年季の入ったローバーでやって来る。牧師は教会の雑木林が気に入っていた。そこに見知らぬ少女がいた。彼女は「移植ごてとかごを持っていた」。不可思議ないでたちをしている彼女に、「珍しい野生のフリチラリア」の採取は禁じられていることを伝える。
遠方から来たという彼女。これで植物の標本がコンプリートすると。牧師は住まいの庭にあるフリチラリアなら取ってもよいと。どこから何のためにと牧師が訊ねる。地球の動植物などの採取・保存のために来た異星人か。試しに牧師の標本として私は、と聞くと、すでにコレクション済みだと。

 

『お城の人々』
幽霊が出るといわれるお城の一角に診療所があった。医師は、効率を最優先して治療に当たっていた。早く仕事を切り上げ、論文を進めたいからだった。ある日、若い女性・ヘレンがやって来た。色白で金髪、白いドレス。症状を聞いても答えない。効率第一の医師はイラつく。彼女は石板に「口がきけません」「なおしてください」と書く。彼女の咽喉を見ると脱脂綿のようなものが見える。ずるずると大量の脱脂綿が出て来る。ようやく取り終えると声がかすかに出るようになった。
彼女はお城の王女だった。予言通り呪いを解いた医師はヘレンと結婚する。ヘレンが診療所に来てから医師は別人のように明るくなり、繁盛する。王様から「思いやりのない言葉を口にしたら、娘は煙のように消えてしまう」と言われていた。
映画がすっかり気に入って見て来た映画のことなどを饒舌に話す彼女。うっかりして非難したら、ほんとに、消えてしまった。
失意の日々。診察以外は人と会わない。夜な夜な城跡で彼女の名前を叫んでいるとか。20年後、医師は著作で有名になったが、心は空洞のまま。ひょんなことから映画館に入る。女性が席を案内する。つまづきかけたら彼女が手を差し出した。懐かしい冷たい手。ヘレンだった。そして医師はヘレンと煙のように消えてしまった。

 

『ワトキン、コンマ』 
ミス・シブレイは見知らぬ大伯父から巨額の遺産を相続する。これを元手にケーキ店を始めようと決意する。銀行勤務の彼女、ケーキをつくった経験もなしに。なかなか良い物件がなくて苦労するが、小さな島の水車小屋を購入する。

「廃屋」をケーキ店兼住居にするため、大掛かりなリフォームを職人に依頼する。基礎工事中に棺が発見される。中には骸骨が。丁重に葬られてあった。郷土史家でもある検視官によるとカトリックのガブリエル神父ではないかと。
さらに職人らは隠し部屋を見つけた。そこに古い革表紙の日記が。神父が書いたものか。日記にはワトキン氏と共にいたと。神父は隠し部屋に匿われていたが、不幸な事故により孤独死・餓死したはずだと。ワトキン氏とは。
今度はシブレイが同じ目に遭う。閉じ込められて、なんとか平静を保とうとする。そこに、ワトキン氏が現われる。ケーキ作りは失敗の連続。お店がオープンできるのはいつ?

 

漫画化するなら、坂田靖子あたりに。アニメ化するなら、宮崎吾郎あたりに。いつものように勝手に妄想する。


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生き方としてのインターネット。その光と影

 

 

ネクスト』マイケル・ルイス著 熊谷千寿訳を読む。

 

インターネットではプロもアマもない。大人も子どももない。男と女もない。阪本啓一氏の著作『パーミション・マーケティングの未来』からの言説を付加するならば、「デジタルであるとは、リアルワールドでのパワーが効かないことである」「デジタルであることは『組織』がなくなり、『個人』が前面に出ることである」。つまり、それが「ネクスト」の意味するものである。

 

オンラインのアンファン・テリブル-恐るべき子どもたち、をはじめとして、本書には冒頭で述べたようなことが作者のインタビューによる実証例として出てくる。

 

たとえば、インターネットで「株式をだまし取り」「株式詐欺容疑をかけられた」15歳の少年。未成年なので少年は母親名義でインターネットで株の売買を始める。やがて本人の才覚で80万ドルを儲ける。未成年だから株式取引はいけない。その一点だけで、詐欺罪が成立するのか、どうか。作者が述べているように「違法な取り引きと合法な取り引きのちがい」は突き詰めていくと、明快に線引きできないような気がする。

 

次もまた15歳の少年の話。インターネット上で「法律問題の助言」を与えるいわばサイバー弁護士。彼はそのサイトの「法律エキスパートの部門」で並みいるプロの弁護士よりも、高くランキングされる。法律の知識が皆無に等しいにもかかわらずにだ。

 

「中央のコンピュータ・サーバーの力を借りずにインターネットを通じて共有するソフトウェア」グヌーテラの賛同者である14歳の少年は、本や音楽を時には不法にダウンロードして楽しんでいる。彼には作者以外にある知的所有権という概念が理解できない。それには従来の資本主義を崩壊させる、社会主義的においを感じる。彼の精神には、インターネットにより新たな社会主義が芽生えていると。

 

子どもの教育にはネットリテラシーが必須であるなどと四角四面に考えるのも良いが、16歳でイギリス・プレミアリーグで得点を挙げた少年と同じように、その才能を評価してみるというのは、いけないことだろうか。

 

イギリスのネオ・プログレッシヴ・ロックバンド「マリリオン」のサクセスストーリー。お金がなくアメリカツァーをしたくてもできなかった彼らに対して、熱狂的なファンがWebサイトで呼びかけてアメリカツァーの費用を捻出する。ゴタゴタうるさいレコード会社ではなく自主制作、インディーズでアルバムを出した。その制作費もWebサイトで募集した、しかも前金で(クラウドファンディングの先駆け)。いわば予約販売なのだから、在庫を抱えることもない。これはビジネスとしても固い。
「人々との熱意とつながる幹線ができたおかげて、インターネットが使えなかったころよりも、ずっと精神的になりました」。
メンバーの一人がこう語っている。これは息抜きともいうべきエピソードか。アメリカのロック映画の秀作のような心地良さを味わうことができた。

 

ただし、タイトルがこれでは、売れるものも売れない。子どものインターネット犯罪ものかと思ったら、それよか、全然、エッジの鋭いものであった。

 

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1960年代の「死の家の記録」

 

 

『穴持たずども』ユーリー・マムレーエフ著   松下 隆志訳を読む。

 

まずは、チモフェイ・レシェトフの解説から、この作品が書かれた時代背景を引用。

 

スターリン死後の1953年、N・S・フルシチョフが権力の座に就いた。彼は国内で一連の自由主義改革を実施し、結果として国家の文化政策が著しく見直された。(非マルクス主義的な)哲学書、宗教書、神秘主義文献など、以前は禁止されていた本にアクセスする道が開けたのである。50年代末、マムレーエフの周辺では、ソヴィエト的現実の枠をはるかに超える関心を持つ人々のサークルが形成されはじめた。これらの人々は図書館の書物で世界の伝統を学びながら、独自の内的探求を行なっていた。彼らは図書館の喫煙所で知り合い、交流した。哲学者、神秘主義者、芸術家、詩人、作家など、多くが社会的な面でマージナルな存在だった。彼らを一つにしていたのは、ソヴィエトの唯物論イデオロギーに対する確固たる不承認だった」

 

このサークルが作品の動機になっていると。

 

頃は1960年代。場所はモスクワ近郊。主人公フョードル・ソンノフが現われる。彼は、いわば、シリアルキラー。しかし、殺人よりも自身の死の世界を希求する。彼が住んでいる共同住宅には、類は友を呼ぶというのか、アダムス・ファミリーよりも、いっちゃっているフォミチェフ・ファミリーの人々がいる。「異常性癖の」クラーワ、ゴミ漁りに夢中なリーダ、自分の肉体を貪り食らうペーチュニカなど。


さらに「敬虔な」キリスト教徒だったのに、なぜか屍鶏に変身してしまった老人ニキーチチ、去勢したミヘイ、「グノーシス的神秘思想の信者で形而上的娼婦」アンナ(よーわからんが結構、魅力的)など、変態ばっか。死と退廃のニオイが濃厚に漂う「形而上派」のメンバーたち。


社会主義体制のソ連の不自由感や閉塞感に不満を覚える人々はイデオロギーのもとに反体制派を標榜する。させられる。小説もSF風味のディストピアものなら、読んだことがある。でも、ザミーチャンの『われら』は、1920年代の作品。この作品が掲げる旗はイデオロギーではなく、カルトやエゾテリスム(秘教)。目には目を。唯物論には形而上学、か。

 

1960年代はヒッピーなどカウンターカルチャーが世界的に広まった。偶然かどうかは知らないが、ソ連でもこのような流れがあったとは知らなかった。マージナル(辺境)における「マージナルな存在」、それが「形而上派」。

 

『まなざしの地獄』見田宗介著の最後の一文が、どんぴしゃ。

「われわれの存在の原罪性とは、なにかある超越的な神を前提とするものではなく、
われわれがこの歴史的社会の中で、それぞれの生活の必要の中で、見捨ててきたものすべてのまなざしの現在性として、われわれの生きる社会の構造そのものに内在する地獄である」


訳者あとがきによると「ソローキンに影響を与えた作家」らしい。アングラっぽく、グロいところかな。ホアキン・フェニックス主演の映画『ジョーカー』を見たときのような苦さ、やるせなさを感じた。


タイトルの「穴持たず」とは、冬眠せず凶暴化したクマを意味する言葉だそうだ。
通常ではない異常なクマ、それはまさしくフョードル以下この作品に登場する人物たちのことだろう。

 

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クラシックな文学の香り、漂う、怖い話

 

 

『ゴースト・ストーリー傑作選 英米女性作家8短篇』川本静子・佐藤宏子編訳を読む。


「19世紀半ばから20世紀初頭」ブームとなったゴースト・ストーリー。訳者あとがきによると、この頃のゴースト・ストーリーのうち、なんと「70%が有名・無名の女性作家」だったとか。その中から英米各4篇の作品をチョイス。

 

何篇かの作品のあらすじや感想をば。

 

『冷たい抱擁』メアリー・エリザベス・ブラッドン著 川本静子訳
画家である男は身寄りがなく父の兄に面倒をみてもらっていた。男と伯父の娘・ゲルトルーデは二人で結婚を約束していた。男は画家として成功するためにイタリアに旅立つ。彼女は手紙を出すが、次第に返信は滞りがちに。父親は一方的に金持ちとの結婚を決めてしまう。男は結婚式の日に戻って来た。河岸で自殺した溺死体を目撃する。それはゲルトルーデだった。男は逃げるように立ち去る。それから、事ある度に「冷たい両腕が男の首に巻きつく」。華奢な指。男が婚約指輪としてあげた蛇の指輪が。
彼女なのか。憔悴しきった男。「冷たい両腕が男の首に巻きつかれ」て絶命する。

 

『ヴォクスホール通りの古家 』シャーロット・リデル著 川本静子訳
父親と諍いの絶えないグレアムは、文無しで今夜泊まるところにも困っていた。とある屋敷を覗き込んで再び歩いていると、屋敷から声をかける者が。かつてグレアムの家で使用人をしていたウィリアムだった。彼が一時期住んでいたという。屋敷はすっかり古びていたが、元は名家の屋敷だったとか。なぜ彼が住めるのか。持ち主の妹が金目当ての強盗に襲われ殺されたから。訳あり物件。

グレアムはその夜、悪夢を見る。守銭奴のような老婆にうなされる。ウィリアムの家族も最初は一緒に住んでいたのだが、夜中、足音や声が聴こえると気味悪がって屋敷を出た。屋敷を探る。妖しい声は幽霊ではなく二人の泥棒だった。グレアムは、泥棒たちが見つけることができなかった株券や証文などのお宝を手にする。意気揚々とその顛末を父親・クールトン提督に話す。

 

『藤の大樹 』シャーロット・パーキンズ・ギルマン著 佐藤宏子訳
「子どもをください」と母親に懇願する娘。手は、「小さな紅玉髄(カーネリアン)の十字架を握りしめ」ている。娘は望まれない出産をした。父親は従兄との結婚を強引にすすめようとしていた。故国から船に乗せた蔓植物は成長が著しい。…「お化け屋敷」のような家。藤の大樹が屋敷のあらゆるところに蔓を這わせている。藤の樹が屋敷を崩壊から防いでいる。若い夫婦たちは、物件見学というよりも幽霊探し気分。地下室で作業をしていた大工たちが声を挙げる。根本に女性の白骨死体があった。「小さな紅玉髄(カーネリアン)の十字架」が首に。
『黄色い壁紙』の作者ならではの作品。蔓は、社会、男性からの女性への拘束の象徴か。

 

『ルエラ・ミラー』メアリ・ウィルキンズ・フリーマン著 佐藤宏子訳
ルエラ・ミラーは気品漂う老婆。若い時分は美貌で鳴らした。なぜか彼女の周囲では次々と不審死が起こる。その様子を見ていた老婆・リディア・アンダーソンは語る。ぴんぴんしていた彼女が突然、今は廃屋となったルエラ・ミラーの屋敷で亡くなっていた。真相などは書いてないし、書く必要もない。今でいう都市伝説のようなものか。

 

『呼び鈴』 イーディス・ウォートン著 佐藤宏子訳
ハートレイはレイルトン夫人の姪のプリンプトン夫人の屋敷の小間使いとして雇われることになった。彼女の前任者、エマ・サクソンは病死したという。プリンプトン夫人の夫は仕事の都合か、屋敷にはほとんど滞在しなかった。屋敷内のとある部屋で人影らしきものを見る。プリンプトン夫人は腺病質だったが、物静かで優しく、使用人たちとも和気あいあいだった。ところが、突然、夫が帰宅すると、空気は一変する。夫は、夫人が友人のランフォードと懇意にしていることが面白くない。呼び鈴が鳴る、奥さまだ。向かおうとする前を誰かが先を行く。後日、再び呼び鈴が鳴る。しかし、奥様は鳴らしていないと。死んだエマ・サクソンが現われる。夫婦に悲劇が訪れる。

 

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気分は『フィネガンズ・ウエイク』を読んだダブリン市民

 

 

『エセ物語』室井光広著を、やっとこさ、読む。

 

作者、最後の未完の長篇小説。すごいと思う。面白いとは思う。しかし、しかし、ちゃっちゃとは読めない。とにかく時間をかけて読み進める。長距離読者の孤独である。

 

一応、内容を紹介してみる。「私の双子の妹と結婚していた」かつての夫(外国人)の膨大な遺稿集を読み解くもの。ユダヤ人ゆえ日本語名。重(ジュー)氏。重氏は、「西洋人(ユダヤアメリカ人)と東洋人(台湾のチャイニーズ)の両方に血脈を持つ」。「晩年は東アジアに関心を深めて」おり、遺稿集の章立ても「陰陽五行」を踏まえたものだと。

 

各章のタイトルからして笑える。たとえば、「おらおらでてんでんごにいぐも」。若竹千佐子の小説『おらおらでひとりいぐも』と「てんでんご」*の掛け合わせの妙。座布団、何枚だ?

 

そも、『エセ物語』は『伊勢物語』のもじりだそうだ。作者は会津、ぼくは中通りの出身。同じ福島県でも、方言はかなり異なる。でも、わかるものもある。「え」を「い」と訛って発音する。ぼくの高校時代の現国の先生がそうだったことを思いだす。「江戸(えど)時代」が「いど時代」、「助手の添田(そえた)さん」が、「そいたさん」。

 

地元の人々は「私(わたし)をアダシと発音する」、訛って。「私(アダシ)の」が、「化野(アダシノ)」(京都の風葬、火葬の地)になる。

 

かような壮大な言葉遊び。ナンセンス文学は、意味がないことに意味があるのだが、この作品はナン-ナンセンス文学。意味がありすぎることに意味があるのか。うーん、まだ、未消化。


宮沢賢治は「イーハトーボ」、井上ひさしは「吉里吉里人」、漫画家ますむらひろしは「アタゴオル」と偶然、東北出身の作家・漫画家が故郷をユートピア化やディストピア化しているのは、風土に関係しているのだろうか。

 

作者は出身地である福島県南会津郡下郷町を「下肥町」の変換して、「願いとコエはよくかけろ」と素敵なスローガンをつくっている。

 

アイルランド人がジョイスの『フィネガンズ・ウエイク』を読む感じなのかな。柳瀬尚紀、渾身の翻訳『フィネガンズ・ウエイク』を読んだが、上巻半ばでギブアップしてしまった。この作品は、へろへろになりながら、読了にはこぎつけることができた。

 

小説に攻められたいM気質の読者の人なら、おすすめする。のたうち回ること必至(必死)。あ、感化されてる。

 

おまけ。この作品で「あんにゃ」と「おんつぁ」が出て来る。あんにゃは、兄貴、兄い、若い兄さんのことだが、30代になっても独身でバイクやオーディオやアイドルなどの趣味に夢中になっている男性を蔑む意味でも使うと。大人げない大人。で、対語が、おんつぁ。おじさん、おっさん、中年男性を意味する方言。なんだけど、「この傘、おんつぁになった」とかも言う。この場合、壊れた、役立たずの意味で使っていた。

 

*「てんでんご」津波が来たら家族は各自ばらばらに逃げるという三陸地方などでの伝統的な避難方法

 


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