午前中、近所のスーパーマーケットへ行こうとしたら、
見知らぬおばさまが「コロナが出たんで休みよ」と教えてくれた。
別な店へ行く。
子どもの保育園の通学路だった道を歩く。
新しい家やマンションが建っているかと思うと
空き家と思われる住宅がぽつんぽつんとある。
見知らぬおばさまが「コロナが出たんで休みよ」と教えてくれた。
別な店へ行く。
子どもの保育園の通学路だった道を歩く。
新しい家やマンションが建っているかと思うと
空き家と思われる住宅がぽつんぽつんとある。
断片的には本人以外の矢川澄子、種村季弘、出口裕行などの本で人となりは知っていた。個人的にはユイスマンスの『さかしま』、コクトーの『大股びらき』、
卒論でテーマにしたバタイユの『エロティシズム』の翻訳が印象に強い。
卒論でテーマにしたバタイユの『エロティシズム』の翻訳が印象に強い。
〇澁澤の才能を見つけたのが三島由紀夫。被告となった「サド裁判」。見栄っ張りである彼は深刻ぶらずにお祭り騒ぎにする。時は熱い60年代。彼の下には様々な分野から新しい才能が集まって、酒盛り、口論、ケンカ、軍歌を熱唱する。時の人であったはずなのに。
「「別冊太陽」のアンケートで「60年代についてどう考えていますか」」に対して「ダサイ時代だったと思います。思い出すこともありません」
と。
〇最初の妻である矢川澄子。一卵性双生児のごとく澁澤を支えていた。資料蒐集、下訳、清書。校正のスタイルや文字まで似ていたとは。改めて離婚の顛末を知る。不幸な出来事だったが、別れていなければ翻訳家・作家として自立できなかったのではないかと思う。矢川 澄子『おにいちゃん―回想の澁澤龍彦』に出て来る最後の別れのシーンがしみる。
〇澁澤はなぜか若いままだった。長髪にサングラス、パイプをくわえた写真を見ると確かに若く見える。しかし、若い頃傾倒していた西欧美術、文学への関心は弱くなったそうだ。再婚後、内外に旅に頻繁に出るようになる。
ぼくが再び渋澤を読んだのが『高丘親王航海記』などの小説だった。
〇澁澤と種村の違いについて。
「マニエリスムのわが国への紹介者として知られる澁澤は、種村自身がいみじくも指摘するように、本質的には古典主義的な側面が色濃い。いっぽう種村は、骨がらみにマニエリストである」
〇面白かったのが渋澤批判の一つで
「好きなものに囲まれて好きなことをするというスタイルを固守した渋澤が、いわゆる<オタク>の先駆者的存在という捉え方」。
<オタク>の定義づけで評価はわかれる。おぼっちゃま気質、おにいちゃん気質とは思うが。
〇終生「筆一本」だったことも特筆すべきことかも。いまは作家と大学の先生という人が多いようだが。本が売れている、いい時代背景もあったと思うし、大学教授は似合わないよな。馬鹿な学生相手に講義なんてまっぴらだったと思う。
澁澤はぼくの亡くなった父親と同年生まれ。戦地にはいかずじまいで軍歌好きの「古典主義」者。世代的にわかるような気がする。