- 作者: 國分功一郎
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2013/06/19
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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『ドゥルーズの哲学原理』國分功一郎著を読む。
で、どうしても、『性の歴史』三部作 ミシェル・フーコー著に関するノートが
必要となって再録、長いエントリーとなった。
この本、ここまでドゥルーズがわかっていいのかしらと思えるほどの労作。
ドゥルーズ曰く
「人は抑圧から反復するのではなく、反復するから抑圧するのである。また、結局は同じことだが、人は抑圧するから偽装するのではなく、偽装するから抑圧するのである」
「偽装するから抑圧する」。どっかのホテルの献立のようだが。
シンクロニシティ?
作者曰く
「少なくともここでドゥルーズが述べている「反復」はラカン派精神分析における「シニフィアン連鎖」とほぼ重なり合う、ということである。
つまり、反復を引き起こすのはファルスである」
そうか、ファルスか。若いファルスの会とか揶揄すれば、
自己批判させられるかもしれない。
上から目線と下から目線の違い。
心理学も経済学も、この同じ「欲望」を対象にしているはずなのに。
「権力と知の共謀、フーコーが常に強調していた点である。ドゥルーズは、この対について、権力はしなやかに作用し、様々な「点」を経由するのに対し、知は硬い「形態」を構成する、と述べている」
「鋼鉄のような Wisdom 輝き続ける Freedom」という
佐野元春の「Young Bloods」の歌詞がぽろっと出てきた。
「点と点を線で結びつけることによって作動する権力の様態を、ドゥルーズは「ダイヤグラム」と名づける。ダイヤグラムとは、たとえば鉄道運行で言われる「ダイヤ」、運行状況を点と線で表示し、管理する、あの図のことだ」
たぶん、ぼくたちは、ち密に、あるいは巧妙に、
管理されているのだろう。
「ドゥルーズは、権力関係という概念そのものをカント哲学に近づけ、「権力関係は知られるということがない」と述べる。これは明らかにフーコーの言う権力関係をカントの言う「物自体」に近づけた規定だ。つまり、権力関係は確かに現実の中に浸透しているけれども―まさしく「物自体」が認識の対象ではなく、その現れである「現象」だけが知られうるように―権力関係そのものが認識されることはなく、知られうるのはその「提示」であるところのダイアグラムだけである、と」
柄谷行人は『トランスクリティーク』で、カントとマルクスをタグ付けしたが、
ドゥルーズはカントとフーコーをタグ付けしているのか。ううむ。
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