ドゥルーズの哲学原理

ドゥルーズの哲学原理 (岩波現代全書)

ドゥルーズの哲学原理 (岩波現代全書)

ドゥルーズの哲学原理』國分功一郎著を読む。
で、どうしても、『性の歴史』三部作 ミシェル・フーコー著に関するノートが
必要となって再録、長いエントリーとなった。

この本、ここまでドゥルーズがわかっていいのかしらと思えるほどの労作。

ドゥルーズ曰く

「人は抑圧から反復するのではなく、反復するから抑圧するのである。また、結局は同じことだが、人は抑圧するから偽装するのではなく、偽装するから抑圧するのである」

「偽装するから抑圧する」。どっかのホテルの献立のようだが。
シンクロニシティ

作者曰く


「少なくともここでドゥルーズが述べている「反復」はラカン派精神分析における「シニフィアン連鎖」とほぼ重なり合う、ということである。
つまり、反復を引き起こすのはファルスである」


そうか、ファルスか。若いファルスの会とか揶揄すれば、
自己批判させられるかもしれない。

ドゥルーズの書物『フーコー』」への論考


フーコーは「権力」から社会を考察しようとした。それに対し、ドゥルーズは「欲望」から社会を考察しようとする」

上から目線と下から目線の違い。
心理学も経済学も、この同じ「欲望」を対象にしているはずなのに。


「権力と知の共謀、フーコーが常に強調していた点である。ドゥルーズは、この対について、権力はしなやかに作用し、様々な「点」を経由するのに対し、知は硬い「形態」を構成する、と述べている」


「鋼鉄のような Wisdom 輝き続ける Freedom」という
佐野元春の「Young Bloods」の歌詞がぽろっと出てきた。


「点と点を線で結びつけることによって作動する権力の様態を、ドゥルーズは「ダイヤグラム」と名づける。ダイヤグラムとは、たとえば鉄道運行で言われる「ダイヤ」、運行状況を点と線で表示し、管理する、あの図のことだ」

たぶん、ぼくたちは、ち密に、あるいは巧妙に、
管理されているのだろう。

ドゥルーズによる「フーコーとカントの関連づけ」。


ドゥルーズは、権力関係という概念そのものをカント哲学に近づけ、「権力関係は知られるということがない」と述べる。これは明らかにフーコーの言う権力関係をカントの言う「物自体」に近づけた規定だ。つまり、権力関係は確かに現実の中に浸透しているけれども―まさしく「物自体」が認識の対象ではなく、その現れである「現象」だけが知られうるように―権力関係そのものが認識されることはなく、知られうるのはその「提示」であるところのダイアグラムだけである、と」

柄谷行人は『トランスクリティーク』で、カントとマルクスをタグ付けしたが、
ドゥルーズはカントとフーコーをタグ付けしているのか。ううむ。

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