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最後のお使い

初めて父からお使いを頼まれたのは、何だったろう。
煙草だったかもしれない。
近所の煙草店までしんせいを買いに行く。
その帰り道、しんせいの箱をくんくん嗅ぐと、いい香りがした。

電気冷蔵庫がなかった頃は、夏になると、
燃料店まで氷を買いに行かされた。
氷を切ってもらい、持参した風呂敷に包んでもらう。
途中氷が溶けだして水滴がぽたぽた道に落ちた。小学校二、三年生頃だったか。

六月下旬、土曜日の明け方、妹から父の危篤の電話をもらった。
突然様態が悪くなったそうだ。
先月、見舞いに行った時は、矍鑠としていた。
後で聴いたら、息子の前で衰えた姿は見せまいと気丈に振る舞っていたそうだ。
そのほぼ一カ月後だった。まもなく逝去したことをメールで伝えてきた。

アルバイトの都合で先に妻が帰省して、翌日の朝、新幹線に乗った。
父の遺体は、実家はガス・電気が止まっているので妹宅に安置してあった。
痩せ細った体は、がん細胞に蝕まれた残骸か。
しかし顔色は良く、肌に触れるとまだ弾力があった。
年齢とともに足腰が衰えたが、杖を頼りに手助けは断っていた。
手を差し伸べても、触れようとしても、叱られた。
亡くなってからようやく触れることができた。
父の顔は、亡くなった祖母に余りにも似ていて驚いた。

一冊のファイルノートを妹から渡された。
父が生前に書いた遺言だった。遠くない死を予測してか、葬儀の段取り、戒名料、
七回忌までは行うこと、地元新聞に掲載される死亡記事での肩書など
こと細かに几帳面な文字で書かれてあった。
住職が通夜に行う法話の材料になるような経歴も一覧でまとめてあった。
いかにも父らしいなと思った。何枚かページが飛んで急に乱文乱筆になる。
倒れて意識のあるうちに書いたものだとか。
そこには、妹夫婦への謝辞と相続について書かれていた。最後に、兄妹、仲良くと。

遺言通りに父の通夜、葬儀は進行した。納骨まで滞りなく済んで妹夫婦宅へ戻ってきた。名ばかりの喪主ではあったが、それなりに緊張はしたようで、
黒のネクタイを緩めるとそれ以上に気持ちがほっとした。
帰りの交通手段を考えていた。JRバスの最終がギリギリ間に合うが、
今日くらいは新幹線を使うか。翌朝、仕事もあるし、その方が楽だろう。
通夜・葬儀でアルバイトを2日間有給休暇扱いしてもらった。
こんなことは、稀で、妹が用意してくれた宿泊先のビジネスホテルで
ゆっくりと眠ることができた。

墓地は市営の霊園で、珍しく母が購入を自ら父に希望した。
街はずれの広大な丘陵に団地の如く墓石が建っている。
先祖代々の父の墓には入りたくなかったのだろうか。
何せ父は昭和一桁世代。絵に描いたワンマン父親であり夫であった。
強権で半世紀以上君臨してきた。
最後までボケることもなくワンマンで亡くなったのだから、幸せと言えば幸せだろう。

同世代の男性は、父親を反面教師にしてきたのではなかろうか。
酔って帰って来ても妻にからまないとか。
昨今DVによる子どものアダルトチルドレンなどが騒がれているが、
ちょっと前までは、ほとんどが子ども、特に男児はそうだったと言っても
言い過ぎではないだろう。
中学校に入る前あたりまで何度なぐられたことか。
自分の娘に対しては、手を挙げないで育てようと思ったが、
気がつくと何回かこづいていた。似ているとは思いたくないのだが。

思い出した。父の見舞いに行った日は、母の日だった。
東京へ帰る前に、母の墓参りに行くことになって、
途中のスーパーマーケットで花を買った。
菊の花はなんだし、カーネーションにしよう。色で、はたと迷った。白か赤か。
いないのだから、白いカーネーションだろう。

でも、赤いカーネーションを墓前に供えた。
母がここを選んだのは、父へのレジスタンスよりも
バスで行ける利便性だったのかもしれない。
父が亡くなっても一人でバスを乗り継いで行けば行ける。
もっとも、現在ではバス路線は一日三本程度、お彼岸やお盆に増発するらしいが。
父を見送るつもりだった母の方が先に亡くなってしまった。

妹のスマートフォンが鳴った。何やら話をしている。「兄に代わります」
スマートフォンを渡しながら「裁判所の人から」と小声で言った。
内容は、生前の父の法曹界における長年に及ぶ功労を称え、
叙勲の候補にしたいというものだった。なんだよ、亡くなってからとは思ったが、
何よりもの餞になるだろうと快諾した。候補ゆえ叙勲されないこともあるそうだが。
決まれば暑い福島まで日帰りか。燕尾服とか正装なのかな。
夫婦同伴とか。ま、決まった時に考えよう。

駅まで送ってもらって弁当と缶ビールを持って新幹線に乗り込む。
運悪く連番で指定席は取れず、妻とは前後になった。

母の死後、父は暫く一人暮らしをしていたが、昨年から
近所の介護付有料老人ホームに入った。
五月の見舞いで初めて入ったが、できたばかりできれいで光が降り注ぐ部屋。
まるでホテルの一室のようだった。ヘルパーさんにも挨拶をしたが、
感じの良い人たちだった。
折り合いの悪い男性の入居者がいたようだったが、
気難しい父が自宅以外で何カ月も暮らしていたのだから、

住み心地は良かったのだろう。
部屋はテレビと新聞が目につくくらいで、あれほど好きだった本は見当たらなかった。
恐らくテレビをずっとつけたままにしていたのだろう。

ここは、当然のように禁酒・禁煙だと思っていたら、

酒は全面的に禁止ではないそうだ。
一時、父は酒に溺れていた。煙草もチェーンスモーカーだった。
酒と煙草をどちらかと選択を迫られ、まず酒を断った。そして煙草も。
口寂しいので飴をなめていた。その飴を何個か、もらった。見舞いのお駄賃か。

以前デイケアに行っていたときは、年寄扱いというか子どもあつかいというか、
それが不満だったらしいが、ここでは、カラオケも率先して楽しんでいたそうだ。

通夜の前、妹夫婦と四人でホームにお礼を述べに行った。
ホームの施設長から父が生前「死ぬことは怖くない」と

自分の死生観を話していたことを聞いた。
第二次世界大戦が終わった日、
父は予科練で確か青森か北海道にいた。その時、そう思ったそうだ。
余談になるが、そこで一生分のほっけを食べさせられたということで、
ほっけの干物は口にしなかった。
定年後、大腸がんを患って長時間に及ぶ手術をしたが、
そのときにも死を意識したのだろう。
術後、「こんなに生きるとは思わなかった」と話していたことを覚えている。

東日本大震災のあった日、母は検査入院の初日だった。
父は、庭に飛び出し、木にしがみついて地震が収まるのを待っていたとか。 
実家の屋根瓦は地震であらかた駄目になり、ブロック塀が倒壊、
停めてあった姪のクルマがぺしゃんこになった。

ホームからの帰りに無人となった親の家に立ち寄った。
広い玄関先には、かつて姪のグランドピアノが置いてあったが、
いまは床がたわんでいる。空き家は傷む。と言われるが、そのことを実感した。
瓦の修繕に大枚をはたいたそうだが、
父が一人暮らしをしていた頃よりもずっとあれ荒んでいた。
元気な頃は天塩にかけていた庭木もほとんど処分した。

この家は定年前に購入した。競売物件だった。
新居祝いに招待された。寒い季節だった。結婚間もないぼくは、妻と帰省した。
新居祝いには、かわいいもの好きの母のためにコスタボダのガラスの花瓶を選んだ。

父の仕事上、県内を転々としたので故郷と特定できるところはない。
一番長く住んでいたのが郡山で小学校二年生から中学校一年生までの七年間だ。
東京の予備校に入るので家を離れてから生まれ育った福島県よりも
東京での暮らしの方がずっと長くなってしまった。
たまにしか帰省しない親不孝な息子だった。同じ市内に住む妹一家に丸投げだった。

数日後、夢を見た。保育園の還り、僕が父と一本指つなぎをしている。
肩下げバッグから、かちゃかちゃ音をさせながら。
空の弁当箱の中でスプーンが暴れている音。
会津若松にいた時だ。母は、地元の生協で事務をしていた。

四十九日法要が済んだ数日後、福島の裁判所の担当者から
正式に叙勲が決定したという電話があった。
僕の住まいが東京なので、東京でも代理授与できることを親切に教えてくれた。
霞が関東京地裁でもらえるそうだ。東京でとお願いした。
本来ならば、生前の父と知己のあった方がおられるかもしれない
福島地裁へ出向くのが筋なのだが、
ちょうど、その頃盆地の福島市は東京よりも最高気温が高くて、近場にしてしまった。
後日、東京地裁の担当者から日程などについて改めて連絡があると。

父は六人兄弟の長男だった。戦時中六人の男子を育てるのは、

祖母も大変だったと思う。
祖母は、当時の女性としては背が高かった。痩身で怖い顔つきをしていた。
でも、初孫の僕には、いつも小遣いをくれるいいおばあちゃんだった。
祖母が亡くなって火葬後、骨上げをしたが骨が多くて骨壺に入りきれなかった。

父も同じだった。

電話が鳴った。家電(いえでん)は、留守電にしてある。
最近では、セールスの電話が主となっているので。
仕事関係も親族も携帯電話にかけてくる。
東京地裁からの電話だった。女性の広報の方だった。日程を決めた。
式に出る時の服装を訊ねると、クールビズで良いと。
まあ、ノーネクタイで白いシャツ、黒いパンツ、黒の皮靴なら無難だろ。

代理授与の日は、皮肉なことに暑かった。何度か目の猛暑日だった。
腕が陽射しで焦げそうだった。霞が関駅を下車するのは、久しぶりだった。
昔の職場が近所で合同庁舎のランチを食べに来たりした。
入館する際、入館証などもらうのかと思ったら、空港のように

金属探知機検査があって、手荷物と携帯電話をトレイにのせてチェックされた。

あとは、意外なまでにフリーだった。
合同庁舎ゆえ、行く先が、ちと分かりづらい。予定時刻ぴったりに着いた。
担当者を訊ねると、奥の部屋に案内される。勲章をもらって終わりかと思ったら、
そうではなかった。

一応、セレモ二ーだから、別室でおえらいさんから賞状、勲章を代理授与した後、
しばし歓談するそうだ。
ノーネクタイだが、地味な服装でよかった。
賞状のもらい方なんてすっかり忘れてしまったので、もらう時、

一応頭を深々と下げた。
裁判所職員として、また定年後は調停委員としての父親の働きに対して

謝辞を述べられた。
こちらも、感謝の気持ちを述べた。
生きていたらさぞかし喜んだことでしょうという趣旨をイヤミにならない程度に、

婉曲に。叙勲を意外に「こんなものか」と言うかもしれない。

そうだ、決して手放しでは喜ばないだろう。
テストで百点取っても誉めない親だった。高校卒業後、
僕が一浪してさらに一浪の時に受けた大学も不合格が続いてようやく合格、
大学の近くにある公衆電話から電話をかけた時も、なぜか、いきなり父が出て
「受かりました」と言うと開口一番「補欠合格か」と言ったくらいだもの。

以前、永年勤続表彰を受けた時は、夫婦で最高裁に招かれた。
夜、渋谷の中華飯店で会ったが、
上機嫌で、いきなりお銚子十本を頼んだのにはまいった。
丹下健三設計による最高裁の建物は、石造りで荘厳というよりも、
石室のようだったと言っていたことを記憶している。その大きな賞状を胸元に置いて、
本と煙草と背広と杖を棺に納めた。

帰宅後、汗まみれの服を着替えて、
早速、いただいた勲五等瑞宝章 他三点セットを広げて妻に見せた。
それから携帯電話で撮影して画像を妹にメールした。伝達式への代理授与、
正真正銘、これが最後のお使いとなった。

蛇足。

いけないとは思いつつ、ヤフーで「ヤフーオークション 勲章」で検索してみた。
やはり、あった、勲章類が。予想通り高くはなかった。

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