わたしを名付けないで

詩のアンソロジーをめくっていたら、
この詩と出会った。刺さった。やられた。知らなかった。
教科書にも採用されているとか。

 

わたしを束ねないで   新川和江


わたしを束ねないで
あらせいとうの花のように
白い葱のように
たばねないでください 私は稲穂
秋 大地が胸を焦がす
見渡すかぎりの金色の稲穂


わたしを止めないで
標本箱の昆虫のように
高原からきた絵葉書のように
止めないでください わたしは羽ばたき
こやみなく空のひろさをかいさぐっている
目には見えないつばさの音


わたしを注がないで
日常性に薄められた牛乳のように
ぬるい酒のように
注がないでください わたしは海
夜 とほうもなく満ちてくる
苦い潮 ふちのない水


わたしを名付けないで
娘という名 妻という名
重々しい母という名でしつらえた座に
坐りきりにさせないでください わたしは風
りんごの木と
泉のありかを知っている風


わたしを区切らないで
,(コンマ)や.(ピリオド)いくつかの段落
そしておしまいに「さようなら」があったりする手紙のようには
こまめにけりをつけないでください わたしは終わりのない文章
川と同じに
はてしなく流れていく 拡がっていく 一行の詩

 

 

1960年代、女性の解放をうたった詩だそうで、
ブラジャーを焼き捨てたアメリカのウーマンリブを思い出した。
2010年代に読むと、学生運動華やかな頃の立て看板(立てカン)にも思える。

4連目の「わたしを名付けないで~」で、
あるコピーとつながっているなとも。これ。

 


なぜ年齢を聞くの


なにも女性だけではなく。
男だって、年齢をきかれるのは、
あまり気持のいいものじゃないんだ。
女の、そして男の、生きていく姿、
それを、すぐ年齢というハカリにのせて
見たがる習慣に、抗議したいと思う。
いま、装いにも、住いにも、
すべて暮しの中から、もう年齢という
枠がなくなりつつあるのですね。
その自由な空気が、秋の、伊勢丹
やさしくつつんでしまいました。

1975年 伊勢丹の新聞広告 土屋耕一

いい詩といいコピーは、似ているし、似ていない。
何よりもコピーは、商品や企業のメッセージや理念を
生活者の心に届かせるためのものという前提がある。

「わたしを束ねないで」英意訳すると「I Shall Be Released」か。
昨今の若い女性の専業主婦へのあこがれは、
自立した女性、キャリアウーマン志向疲れのあらわれなのだろうか。
ダイバーシティを推し量り、有能な女性を登用して戦力にする国と企業、
若い女性との激しい乖離。

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