ブルックナー讃―非凡なる平凡か、平凡なる非凡か

 

 

ブルックナー譚』高原英理著を読む。

 

いわゆる評伝はノンフィクションゆえ、史実や資料に基づいた枠というか枷がある。
小説家である作者は、評伝が書いてはいけない領域に踏み込んでブルックナーをいまに甦らせる。「見てきたような嘘を告く」というが、読者にいかにそう思わせるかが腕の見せどころ。

 

熱心なクラシックファンではないぼくだが、ブルックナーの劣等感と優越感が入り混じった性格。教会の名オルガン奏者に飽き足らず、作曲法を学び、願わくば大学教授などになって地位も名誉も収入も向上させたい。その成り上がり精神や、不器用というか正直な生き方に、人間くさい魅力を覚えた。

 

19世紀、ウィーン楽壇はブラームス派とワーグナー派に分かれており、ブルックナーワーグナー派と見做されていた。ブルックナーヴァーグナーに心酔していた。神だった。


ブルックナーは、ヴァーグナーの古典主義的でない拡大されたロマン主義の、いわば破格の音楽構成・個性破壊に至るぎりぎりの和声進行といった前衛性には強く惹かれたが、その「楽劇」のストーリーにはまるで興味もなく理解もできなかったことがだ弟子たちの証言から知られている」


このエピソードが、らしさを物語っている。

ヴァーグナーに『交響曲第3番』を捧げようとバイロイトに行ったブルックナー。『ニーベルングの指輪』作曲完成に頭から火を噴いていた状態にもかかわらず。この空気の読めないっぷりったら。「「三日後に来なさい」」と言われる。これは、京都人から「ぶぶ漬けでもどうどす」と言われるのと似ているのだが、通じない。それどころか、延泊するほど「懐」が豊かではない。「ほんの数分でよろしいので」とその場で見てもらうことを懇願する。褒められて有頂天。「午後五時に別邸のヴァーンフリート館に来なさい」と。空き時間に彼は「建設中のバイロイト祝祭劇場を見学する」。建設現場で足を滑らせて「モルタルが衣服に」ついてしまう。約束の時間に現われたブルックナーを見たコジマ夫人。「汚い物乞い」かと。


たぶん生涯ダサかったブルックナー。いでたちも当時の流行りものではなく、オルガンの弾きやすい服装。口下手だし、訛りもあった。でも、大学では男性の教え子、弟子たちから慕われていた。最後にはガラガラになった劇場でも懸命に拍手したり、ブラボー屋になったり。作者はこう述べている。

 

ブルックナーが「世間」に対しては無力・無能、弟子に対しては「家長のような威厳」を見せたというところである。この乖離した二面がブルックナーの性格の特徴と言える」

 

交響曲第三番がヴィーン・フィルの定期演奏会」で指揮をしたブルックナー。聴きに来た学生たちの一人がマーラーだった。「大学でのブルックナーの講義を聴き、オルガンの演奏や、ときに例示される自作からその音楽に心服していた」


女性の教え子からいまでいう「セクハラ」で訴えられたが、救いの手が差し伸べられる。

 

幾つになっても恋するのはティーンエイジャーの娘。ロリコンとかじゃなくて、たぶん、大人の女性は苦手。ホモソーシャル気質のミソジニー野郎だったのだろう。でも、非難できない。とにかく心が折れない。作品が酷評されようが。たまには、折れたようだが。


何せ「ヴィーン・フィル」一流の奏者も嘆くほど難しかった。理解できなかったと言うべきか。ヴァーグナーの亜流とはじめは評価しなかったうるさい評論家連中やウィーンっ子たちも、やがて彼の交響曲の新しい魅力に惹かれていく。

 

教会のオルガン奏者からスターとしたブルックナー。譜面通りの演奏よりも即興プレイの方が断然すぐれていたと。いまならアドリブばりばりのジャズピアニストかなんかで売れっ子になっていたかもしれない。

 

この分厚さは必然だと思う。たっぷりとブルックナーの生涯や音楽を知ることができるのだから。Spotifyで「未完の『交響曲第九番』」でも聴くことにしよう。


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