Rap As Literature Literature As Rap

 
 
MOMENT JOONを知ったのはTBSラジオ『アフター6ジャンクション』だった。
いまのぼくにとっては雑誌的存在のラジオ番組。
日本語、韓国語、英語を駆使したラップの鋭いライムに驚いた。
こんな感じ。YouTubeから引用。
Moment Joon - 令和フリースタイル (Reiwa Freestyle)


Moment Joon - 令和フリースタイル (Reiwa Freestyle)


で、何かと話題のリニューアルして増版となった2019年秋季号『文藝』に
小説の一部を発表している。
完全版がネットで公開されている。
その一部を読んだが、もういっぺん驚いた。
出力するとかなりの枚数。
twitterでリツィートしたが、こちらでも再度告知。

韓国文学のニューウェーブ芥川賞確実?
 
ああ早く本で読みたい。

きょう、マウスが死んだ

 

ずっとこの雑誌のことを書こうと思っていた

ずっとこの雑誌のことを書こうと思っていた

 

 

きょう、マウスが死んだ。
あわてて買いに行く。
仕事上、酷使するのでいっちゃん安いヤツ。
手がちっさいので小ぶりのを。
 
『ずっとこの雑誌のことを書こうと思っていた。』
鏡明著を読む。
タイトルがどことなく植草甚一っぽい。
 
メインは『マンハント』。
それだけでなく『ヒッチコックマガジン』『漫画読本
洋酒天国』『メンズクラブ』などにも及んでいる。
うっすらとは知っていたが、分厚い内容で
マンハント』のAtoZを知る。
 
ネットやスマートフォンがなかった頃は、
紙で得る情報は雑誌や新聞だった。
テレビ局の数が少ない地方では
雑誌は趣味や生き方の教科書、参考書のような存在だった。

ヒッチコックマガジン』は編集長が中原弓彦(小林信彦)で
知ってはいた。ライバルが編集長が都筑道夫の『エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン』。
 
マンハント』を支えた小鷹信光や山下愉一、編集長の中田雅久
インタビューは貴重。
マンハント』日本版はコラムにも力を入れ
植草甚一田中小実昌テディ片岡らが活躍する。
福田一郎の音楽コラムの文体ってなうじゃね?
 
作者はこう書いている。

「「マンハント」という雑誌が、ミステリ雑誌以上にカルチャー・マガジンだと思えてしまうのは、小説もコラムも、多くのミステリ以外のことを
ぼくに教えてくれたからだ」

 

で、ここが重要。

「ペーパーバックサイズ」

 んで、もって

 

「ヌード・グラビア」

 

 
死語を墓場から一つ蘇らせれば、モダン軽チャー。
日本のカルチャー・マガジンのテンプレになった。
 
おおざっぱだけど、
新青年』→『マンハント』(『ヒッチコックマガジン』など)→『平凡パンチ
→『POPEYE』という流れになるようだ。
 
ぼくが『平凡パンチ』を知った頃は
表紙は大橋歩ではなかった。
高校時代、第二次アイヴィーブームで『メンズクラブ』はバイブルだった。
草森紳一命名したことをかなりあとで知る。
 
予備校生のとき、新宿・紀伊国屋書店
ペーパーバックサイズの『宝島』を買った。
 

開かれ

 

開かれ―人間と動物 (平凡社ライブラリー)

開かれ―人間と動物 (平凡社ライブラリー)

 

 

 
バタイユ湯浅博雄著の補足的なエントリー。
 
『開かれ―人間と動物』ジョルジョ アガンベン著  岡田 温司  多賀 健太郎
を読む。
 
予想したよりずっと読みやすかった。『ホモ・サケル』よりも。
20章からなる比較的短めのテキストは、なめらかで含蓄がある。
くちあたりの良い酒のようだ。
 
翻訳も上手だと思うが、原文も素敵なんだろうな。
どうもこういう実直じゃない修辞的な文体に弱いきらいがあるようだ。
イケメン好きのオバサンみたいだ。
 
例によってバタイユハイデガーフーコーらを下敷きに
論考を重ねているのだが、あらためて“元祖動物化コジェーヴの評価が高いことに気づかされた。
 
四半世紀前には、ヘーゲルニーチェ→ バタイユだと思っていたけど、
ヘーゲルバタイユの間にコジェーブが入るんだ。
コジェーヴの場合は、ヘーゲルマルクスが付加される。
 
ざっと抜書き。
 

バタイユは、高等研究院で、ヘーゲルに関するコジェーヴの講義を聴講していたが、その中心的なテーマのひとつが、実際、歴史の終焉をめぐる問題、つまり歴史以後の世界で呈するということになる自然と人間の姿をめぐる問題であった。歴史以後とは、まさにホモ・サピエンス種という動物が人間になるという忍耐強い労働と否定の過程を経て、それがついに完結を迎える暁のことである」

 

コジェーヴは、人間と人間化した動物との関係において、否定や死の側面を優先するあまり、近代にあって人間(あるいはコジェーヴにとっては<国家>)が逆に自己本来の動物的な生に配慮しはじめるようになり、生権力とフーコーが呼んだものにおいて自然的な賭金にすらなっていく過程を見過ごしているように思われる。おそらく人間化した動物の身体(奴隷の身体)とは、観念論の遺産として思考に遺された解消しえない残余なのであり、今日における哲学のさまざまなアポリアは、動物性と人間性とのあいだで還元されぬままに引き裂かれて張りつめているこの身体をめぐるアポリアと符号するのである」

 

「人間と動物を区分するのは言語である。しかし、言語は歴史の産物なのである。したがって、そういうものとしては本来、言語は動物にも人間にもあてがうことはできない」

 


「現代の文化にあって、あらゆる他の闘争を左右するような決定的な政治闘争こそ、人間の動物性と人間性の間の闘争である。すなわち、西洋の政治学は、その起源からして同時に生政治学なのである」

 

「人類学機械が人間の歴史化の原動力であったとすれば、哲学の終焉と時代に左右される存在目的の完遂は、この機械が空回りしていることを意味している」

 

「動物園の檻は、人間が動物を隔離するものなのか、それとも、動物から人間を隔離するものなのか。この問いかけへの一見自明とも思える答えは、病院、監獄、収容所、戦場、裁判所で日々くりひろげられる光景が脳裡をよぎったとたんに、たちまちあやしいものに見えてくる」

 うーん、なんだか、はまりそうだ。もう、はまってるか。


消えたぼくのブログから。

顔は一つじゃない

 

バタイユ (学術文庫)

バタイユ (学術文庫)

 

 

消えたブログやWebサイトをどうしても見たい。
URLがわかっているときは、Internet Archiveが便利。
Internet Archiveに行きURL入力欄に、目的のURLを入力。
「BROWSE HISTORY」ボタンを押す。
 
バタイユ湯浅博雄著を読んだ。

バタイユという思想家は、いろいろな顔がある。
かつてぼくは大学の卒論で果敢にも主に文学者の視点からとらえようとしたが、その範疇にはおさまりきれなかった。
ここ最近になって、ジャン・リュック・ナンシーやジョルジュ・アガンベンの著作を読むと、バタイユの影がちらちら。
バタイユ入門書を読んでみて、どんな顔が見えたのかをざっと書き出してみる。
 
<『バタイユ湯浅博雄著の読書メモ>
 
◆「労働者や下層庶民の曖昧な両義性」
 
○「近・現代産業社会では、資本=貨幣を所有する人々が生産(流通・消費)過程を主導し、「社会の同質的領域」を基礎づける。いわゆる中間階級も、この同質性に包含される」
「しかし、ブルー・カラーの労働者や下層庶民たちは、曖昧な両義性を示す。彼らは一方では生産(流通・消費)過程に組み込まれており、尺度を受け入れている」
しかし、
「工場の外、作業現場を離れたところでは、労働者大衆・下層庶民は、
「同質的な」人間たちにとっては一種の<異邦人>、「別種の」人間だ。
規範や法に従うとは限らない人間、「合理的に考えて」行動する仕方から
すぐに逸脱しやすい人間、なにか荒々しさをおびている人間だ」

 外国人労働者やパート・アルバイト、契約職員、派遣職員など非正規社員

いまならここに付加されるのだろう。プロレタリアアート+プレカリアート
 

○「バタイユの見方では、資本制生産(流通・消費)過程が安定して拡大する限り、こうした<同質性>は揺るぎなく保たれる。つまり、そこから排除された部分、マルジナル化されたエレメントは抑え込まれたままだ」
「しかし、大恐慌による資本主義経済の破綻、大混乱は、社会の<同質性>が揺らぎ、亀裂を受け、分解する危機をもたらした」
「この危機に敏感に反応し、「克服」しようとする運動の一つがファシズムだ。むろんもう一つは「共産主義」的な革命運動である」

 ファシズム」も「共産主義」もムーブメントとして、おんなじだと。

そしてこのあと、ファシズムの「労働者大衆・下層庶民」を対象にした取り込み方を述べているが、現在もほぼこの人心掌握術は踏襲されているのだろう。
「労働者大衆・下層庶民」は無党派と近似値と思ってよいのでは(裏付けデータはないが)。
 
◆「愛するもの同士の共同性」
 

○「バタイユの見方では、<愛の関係>は私と他者とがつねに向かい合う関係である。<愛>は他者の愛を愛し、その欲望を欲する。しかし「他者に承認される」のを求める欲望(ヘーゲル)とは微妙に異なる。<愛>における欲望は自己を消尽する欲望であり、獲得や所有の欲望ではない(変質することもありうるが)。<愛への愛>は、私が抱く意図や志向ではない。<対>の共同性のなかにいる私にとっては、この相手は「私が秘められている」よりもつねにもっと秘められている、という不思議な在りようをしている」

 「消尽」はバタイユのキーワードの一つで作者は「消尽=贈与」としている。

「愛は惜しみなく奪う」のではなく、「愛は惜しみなく与える」のである。
カノジョに何を与えるのか。小金を持っている中年オヤジにとってはマンションやブランド品だったり、貧しき若者男子にとっては詩篇やオリジナル楽曲だったり。
贈与という行為においては等価なのである。
 

○「バタイユの考えでは、<恋愛>が深く生きられるとき、主体は「主体」としてとどまることはなく、対象もまた通常<対象が位置している面>にとどまらない。それゆえ<愛の関係>が白熱するとき、まるで主体と対象とのあいだには一種の合一が起こるように思える。一見すると、愛する者同士の共同性は、いかにも一致や一体化が生じる共同体であるかのように信じられる」

 

愛は幻、共同幻想。同じベッドで眠っていても夢は別々。
 
◆「共同性を持たない者たちの共同性」
 
○「バタイユの考えでは、労働する者、理性的に思考し、ふるまう者としての人間の真実をみごとに衝いているヘーゲル的な<知>と論理は、しかし国家のような共同体を超えられない。主体-の-外の次元、人間においてどこにも到達しようとせず、なにも所有しようとしない部分、完了する、ということがなく、「全体になろう」としない部分に盲目となっているからである。それゆえ「私が関係することの不可能な関係」によって結ばれる共同性に気づかず、共同性とはいつも既に「可能性の関係」によって結ばれることを前提にし、つねにそこへ至ろうと目指していると、考える」
「それに対し、バタイユはむしろ主体-の-外の次元、消尽の欲望の次元における「不可能な」関係に関係づけられることを<共同性>と考える。つねに来るべき出来事となる他者、絶えず逃げ去る他者たちの共同性、いわば「共同性を持たない者たちの共同性」こそが、国家のような共同体を無効にする契機を孕んでいる。こうしたバタイユの<共同体>論は、アクチュアルな射程を持っている」
 
フーコーバタイユクロソウスキー、プランショについて述べた「外の思考」という著作があった。確か、その主旨はドゥルーズいうところの「私の中に<他者>を見出す」ことであるということ。それにならえば「私の中に<死者>を見出す」もアリか。キモイ?

「共同性を持たない者たちの共同性」って具体的にいうと、上野千鶴子が唱える「選択縁」もその一つなのだろうか。
 
消えたぼくのブログから。

いないんだ

 

インスマスの影 :クトゥルー神話傑作選 (新潮文庫)

インスマスの影 :クトゥルー神話傑作選 (新潮文庫)

 

 

目がかゆくて、くしゃみも出る。
何の花粉だろ。
天気が良くて湿度も低いので
夏用の羽毛布団と毛布を干す。
干したての布団は
猫センサーにすばやく反応するようで
ラガーマンのようにトライして
そこから動かなくなった。
あ、いないんだ。

インスマスの影 クトゥルー神話傑作選』
H・P・ラヴクラフト著  南條竹則編訳を読む。
『ダンウィッチの怪』、『クトゥルフの呼び声』や『インスマスの影』など
代表作7篇を選んで新訳。
CDならばリマスタリングって感じ。
 
建物や人物、怪物たちを文章から想像して読む。
うすぼんやりとしたモノクロームの世界に
明度の異なる闇が浮かぶ。
おぼろげながら情景が見えてくる。
100パー見えないのは、ぼくの想像力不足なのかも。
ハズキルーペをかけても文字は鮮明になるが、
脳内までは鮮明にしてくれない。

いままで読んだものもあるが、改めて読むと、
いまの幻想、怪奇、ホラー的な要素がすべてある。
文学のみならず、漫画、映画、ゲーム、アートなど多岐にわたって。
クトゥルー神話の生みの親、ラヴクラフト
クトゥルー神話」に時代がようやく追いついたのだろう。
なんて陳腐な言い回し。
往年のファンやラヴクラフト信奉者には
何言ってやがんだいって眉をしかめるかも。

クトゥルフの呼び声』に「粘土板に象形文字」で綴られた
クトゥルー神話」が出てくる。
子どもの頃、地球にはまだ見つかっていない国や人種や文化がある。
そう思ったことはないだろうか。
でもそれはやがて忘れ去られてしまう。
ラヴクラフトは忘れることなく、同好の志と膨らませ続け、
もう一つの神話を体系化してきた。

作者のこの一文、シビれた。

「結局のところ、実際には目に見える恐ろしいものは
何も見ていないのだということを良く心に留めておいて
いただきたい」
(『闇にささやくもの』より)

 


 

間に合わなかった

 

沙羅乙女 (ちくま文庫)

沙羅乙女 (ちくま文庫)

 

 

ブンゲイファイトクラブ、間に合わなかった。


『沙羅乙女』獅子文六著を読む。
いつものように洒脱で達者な小説。
読んでいる間は、ハッピー気分。
 
男女の三角関係つーか四角関係。
主人公はしっかり者の女性。
彼女がまんざらでもない男は、お坊ちゃんの伊達男。
彼女に「ほ」の字の男は、いまでいうパティシエ。
腕は立つが、生来の口下手。
お坊ちゃんを泥棒ネコする女性は、
パリ帰りのセレブ絵描きお嬢様。
揺れる恋模様。
そこに市井の発明家である彼女の父親が世紀の大発明を
したとかしないとかで大騒ぎ。
恋の顛末はどうなることやら。

煙草店の雇われオーナーをしている彼女。

三軒茶屋から玉川電車、渋谷から省線で、新宿までの順路を、
町子は、もう五年も、通っている勘定だ」

 


 
彼女の住んでいる家が近所でびっくり。
本作も映画化されている。
機会があればぜひ見たい。
 
映画『沙羅乙女』
「作品情報
沙羅乙女 前篇(1939年製作の映画)
製作国:日本 / 上映時間:62分
-
監督
藤武
脚本
山崎謙太
出演者
千葉早智子 藤原釜足 江波和子 徳川夢声 北沢彪

 

主人公の女性を千葉早智子。お嬢様を江波和子が演じている。
江波和子は、江波杏子の母親。娘以上のクールビューティーぶりを検索で確認を。
 

内は、冬

 

外は夏 (となりの国のものがたり3)

外は夏 (となりの国のものがたり3)

 

 『外は、夏』キム・エラン著 古川綾子訳を読む。

ロス(喪失)をテーマにした7つの短篇集。
しかし、それぞれにテイストは異なっている。
3篇だけ感想を。ネタバレもあるんで知りたくない人はスルーして。
 
立冬
結婚して子どもが生まれ、念願のマイホームを手に入れた。
妻ははりきって理想のインテリア空間、理想の家庭をつくろうとはりきる。
突然、子どもが交通事故で亡くなる。
昨日までは子どもの声がした部屋。
子どもが玩具で遊んだ部屋。
理想ではちきれんばかりだった妻は、
対象喪失に耐えられず生ける屍状態となる。
なんとか乗り越えようとする夫婦だが。
事故ではないが病気で男児を亡くした人がいた。
葬儀に参列したが、いたわしくてどう声をかけていいものかわからなかった。
数年後、たずねたら可愛らしい女子の赤ちゃんがいた。
 
『ノ・チャンソンとエヴァン』
小学生のチャンソンは「祖母の働くサービスエリア」で白い犬と出会う。
エヴァンと名づける。なんとか飼おうとするが、
祖母は食い扶持が余計にかかるとシブい態度。
エヴァンが病気になる。高額な治療費のためにアルバイトをはじめる。
韓国も日本と同様に動物病院は高いらしい。
ほどほど貯金ができたが、もらいもののスマホSIMカードに消える。
次はスマホケースに消える。
子どもだものなあ。衰弱したエヴァンが姿を消す。
リアルな結末。
ぼくも小学生のときに猫を拾ったが、病弱だった。
結局、父親が捨てに行った。
次は亀を拾った。亀は水槽から脱出した。
そんなことを思い出す。

『どこに行きたいのですか』
スコットランドに住む従姉」から「留守番を頼まれた」私。
夫婦で留守居役を預かることとなる。
韓国からイギリスまでは飛行機。
ロンドンからエディンバラまでは列車での長い旅。
季節は春だがどんよりした空。
かつて夏目漱石が秋・冬のロンドンの天候に神経をやられてしまったように、
アジア人にはこの気候や石造りの似た家が並ぶ街並みはつらいらしい。
とてもサイトシーイングどころではない。
旅先で、つまり外に出ると内にいた自分の状況を見ることができる。
異国でできた友人が意外なことに、Siriだった。
「アップルのiOS端末に搭載されている音声アシスタント機能」
Siriと会話する。Siriに観念的な質問する。
このあたりもっとフォーカスするとSFぽくなる。
タイトルも『ドコニ行キタイノデスカ』とすればよかったのに。

人気レストランのコース料理を味わうことと
同じような贅沢な充足感が残る。
登場人物に読み手が交信できるかどうかは
作者の力量にかかっている。
悲しみや傷みに共感する。
生き方に同調する。
傷のなめ合いは、良い意味で使われないことが多いようだが、
小説で傷のなめ合いをしても構わないと思う。
 
キム・エラン作品の拙レビュー
『どきどき僕の人生』キム・エラン著 きむ ふな訳
http://soneakira.hatenablog.com/entry/2018/07/06/121654
 
『走れ、オヤジ殿』キム・エラン著 古川綾子訳
http://soneakira.hatenablog.com/entry/2018/06/24/163820
 
書きますた
チューリッヒ保険会社 自動車保険のお役立ち情報
エコカー減税の対象期間・対象車。自動車税制改正でどう変わる?
https://www.zurich.co.jp/car/useful/guide/cc-ecocar-tax-reform/