いまのぼくにとっては雑誌的存在のラジオ番組。
日本語、韓国語、英語を駆使したラップの鋭いライムに驚いた。
こんな感じ。YouTubeから引用。
で、何かと話題のリニューアルして増版となった2019年秋季号『文藝』に
小説の一部を発表している。
完全版がネットで公開されている。
その一部を読んだが、もういっぺん驚いた。
出力するとかなりの枚数。
twitterでリツィートしたが、こちらでも再度告知。
「「マンハント」という雑誌が、ミステリ雑誌以上にカルチャー・マガジンだと思えてしまうのは、小説もコラムも、多くのミステリ以外のことを
ぼくに教えてくれたからだ」
「ペーパーバックサイズ」
んで、もって
「ヌード・グラビア」
「バタイユは、高等研究院で、ヘーゲルに関するコジェーヴの講義を聴講していたが、その中心的なテーマのひとつが、実際、歴史の終焉をめぐる問題、つまり歴史以後の世界で呈するということになる自然と人間の姿をめぐる問題であった。歴史以後とは、まさにホモ・サピエンス種という動物が人間になるという忍耐強い労働と否定の過程を経て、それがついに完結を迎える暁のことである」
「コジェーヴは、人間と人間化した動物との関係において、否定や死の側面を優先するあまり、近代にあって人間(あるいはコジェーヴにとっては<国家>)が逆に自己本来の動物的な生に配慮しはじめるようになり、生権力とフーコーが呼んだものにおいて自然的な賭金にすらなっていく過程を見過ごしているように思われる。おそらく人間化した動物の身体(奴隷の身体)とは、観念論の遺産として思考に遺された解消しえない残余なのであり、今日における哲学のさまざまなアポリアは、動物性と人間性とのあいだで還元されぬままに引き裂かれて張りつめているこの身体をめぐるアポリアと符号するのである」
「人間と動物を区分するのは言語である。しかし、言語は歴史の産物なのである。したがって、そういうものとしては本来、言語は動物にも人間にもあてがうことはできない」
「人類学機械が人間の歴史化の原動力であったとすれば、哲学の終焉と時代に左右される存在目的の完遂は、この機械が空回りしていることを意味している」
「動物園の檻は、人間が動物を隔離するものなのか、それとも、動物から人間を隔離するものなのか。この問いかけへの一見自明とも思える答えは、病院、監獄、収容所、戦場、裁判所で日々くりひろげられる光景が脳裡をよぎったとたんに、たちまちあやしいものに見えてくる」
うーん、なんだか、はまりそうだ。もう、はまってるか。
○「近・現代産業社会では、資本=貨幣を所有する人々が生産(流通・消費)過程を主導し、「社会の同質的領域」を基礎づける。いわゆる中間階級も、この同質性に包含される」
「しかし、ブルー・カラーの労働者や下層庶民たちは、曖昧な両義性を示す。彼らは一方では生産(流通・消費)過程に組み込まれており、尺度を受け入れている」しかし、「工場の外、作業現場を離れたところでは、労働者大衆・下層庶民は、
「同質的な」人間たちにとっては一種の<異邦人>、「別種の」人間だ。
規範や法に従うとは限らない人間、「合理的に考えて」行動する仕方から
すぐに逸脱しやすい人間、なにか荒々しさをおびている人間だ」
○「バタイユの見方では、資本制生産(流通・消費)過程が安定して拡大する限り、こうした<同質性>は揺るぎなく保たれる。つまり、そこから排除された部分、マルジナル化されたエレメントは抑え込まれたままだ」
「しかし、大恐慌による資本主義経済の破綻、大混乱は、社会の<同質性>が揺らぎ、亀裂を受け、分解する危機をもたらした」
「この危機に敏感に反応し、「克服」しようとする運動の一つがファシズムだ。むろんもう一つは「共産主義」的な革命運動である」
○「バタイユの見方では、<愛の関係>は私と他者とがつねに向かい合う関係である。<愛>は他者の愛を愛し、その欲望を欲する。しかし「他者に承認される」のを求める欲望(ヘーゲル)とは微妙に異なる。<愛>における欲望は自己を消尽する欲望であり、獲得や所有の欲望ではない(変質することもありうるが)。<愛への愛>は、私が抱く意図や志向ではない。<対>の共同性のなかにいる私にとっては、この相手は「私が秘められている」よりもつねにもっと秘められている、という不思議な在りようをしている」
「消尽」はバタイユのキーワードの一つで作者は「消尽=贈与」としている。
○「バタイユの考えでは、<恋愛>が深く生きられるとき、主体は「主体」としてとどまることはなく、対象もまた通常<対象が位置している面>にとどまらない。それゆえ<愛の関係>が白熱するとき、まるで主体と対象とのあいだには一種の合一が起こるように思える。一見すると、愛する者同士の共同性は、いかにも一致や一体化が生じる共同体であるかのように信じられる」
「結局のところ、実際には目に見える恐ろしいものは
何も見ていないのだということを良く心に留めておいて
いただきたい」
(『闇にささやくもの』より)
『外は、夏』キム・エラン著 古川綾子訳を読む。