パンVSペン

パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い

パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い



パンとペン』黒岩比佐子著の感想メモ。


「飢えた子の前でペンは有効か」と言ったのは、確かサルトルだけど―念のためネット検索したら「飢えた子の前で文学は有効か」になっているが―。そういう時は、ペンよりもパンの方が有効だろうと単純に思う。


堺利彦と聞くと幸徳秋水の畏友でサヨクの人だと思っていた。幸徳秋水らが大逆事件で逮捕された時、堺はつまらない事件で逮捕され、投獄、命拾いした。結果から見ると幸いだった。


この本は、堺利彦が起業した売文社に焦点を当てた。いまで言うなら編集プロダクションと翻訳会社と広告プロダクション機能を備え、当時としては画期的、ユニークな会社だった。危険思想分子と官憲から見なされたからには、ペンでパンを得るには、この手しかなかったのだろうとは思うが。堺の「潤滑油」的存在なくては成立しなかったそうな。


理想主義者はペンのことばっか考えてパンのことをいうのはカッコ悪いと思うようだが、作者によると堺はフェミニズムにも理解があって、要するに「おとこおばさん」だったのだろう。ユーモアのセンスにも卓越したものがあったようだし、北一輝から永井柳太郎までいろんな人を惹きつける魅力があった。たぶん、了見の狭いペン至上主義者には我慢ならないことだったんだろうね。本来なら自分一人で喰っていけるところを、あえてアカとレッテルを貼られ仕事のない後輩に仕事をつくり、与えた。かように敵をつくらない人柄と文才とそろばん勘定ができる商才を備えていた。


ベンチャー企業だった売文社も、例えば尾崎士郎とか新しい人が入り、やがてぎくしゃくして崩壊する。この図式は、いまでもよくある。経営方針の対立や派閥・人脈によるボス猿争いなど。ただ違っていたのは、やはりイデオロギーの対立ということだ。小商いでそこそこみんな日々のパンにありつければめでたし、めでたしとぼくなら安易に思ってしまうが、やはりペン(自説・自論)を曲げるわけにはいかないというマッチョ的なもの(男の股間ならぬ沽券)が売文社の幕を引いてしまった。
語学に堪能な堺は、アルセール・ルパンやジャック・ロンドンの作品をいち早く紹介したそうだ。


売文社の一員だった茂木久平について作者はこう書いている。

「早稲田の学生時代には大杉栄に心酔し、『近代思想』を愛読していた茂木が、その大杉を虐殺した犯人とされている甘粕と深い関係を持つようになるとは、これまた奇怪というほかはない」

「奇怪」―そうだろうか。学生時代はマルクスボーイだったが、今は一部上場企業の社長になって日経の『私の履歴書』あたりで自慢げに語っている人が、いるよね。それと理屈、ロジックからすると矛盾しているけど、本人にとってはちいとも矛盾していないってこともままある。


と、ちょいケチをつけてみたが、遺跡から土器の断片を蒐集して土器を復元するような、この場合は、古書や資料を買い漁ってだが、作者の丁寧な仕事ぶりには頭が下がる。


てなことを勝手に書いているぼくは、売文社ならぬ売文者の一人。


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