自分のいる場所だけが世界じゃない

コーネリアスの新アルバムに収録された Music のPVを眺めていると、
小沢健二の最新作のインストアルバムとなぜかイメージが重なってしまう。
比較しても音楽的には違うのだが、似ている。なぜなのだろう。
気持ちよい浮遊感。ここではないどこか。
ぼくだけ、あるいはきみとぼくのサンクチュアリって感じ。

『祖先の物語 下』リチャード・ドーキンス著で取り上げられていた「ディープ・グリーン」プログラム。
早速、Webをのぞいてみると、植物の多様的な進化を系統樹によりマウスで体験できる。
ドーキンスがいうように動物版もぜひみてみたい。
ただし、英語。日本語版も出してくれないかなあ。

http://ucjeps.berkeley.edu/map2.html

いっそのこと、この本も系統樹を目次にしてそこから展開していくWebサイトのほうが、
より多くの人に賛同を得ると勝手に思う。どうですか、版元の小学館さん、電子版を検討してみては。
昔、CD-ROMの企画を売り込みに行った小学館プロダクションの方があってるかな。

歩行と記憶のエントリー「いじめ、見たくないものは存在しない 」に関連して。

イジメ問題。「イジメはなかった」ってどのツラ下げていうのだろう。
オトナには見えないイジメと見えるイジメがあるのだろうか。

大体、人間二人いりゃ、ケンカ、差別、イジメが生まれる。
三人寄れば文殊の知恵なんだけど、今度は派閥ができて、イジメはより陰湿なグループ抗争となる。
誰かにくっつきゃ残りはハブ(シカト)され、
また違った誰かがくっつきゃ今度は違うメンツでハブ(シカト)される。

目立つ子と目立たない子がどうもイジメの標的にされるようだ。

イジメ問題なんて解消できっこない、極論かもしれないが。だったらどうする。
イジメられた子どもが前途を悲観して衝動的に死なないように、キレて逆襲しないように、
なにか手立てを考えないと。
学校と親の責任のなすりあいじゃなくて。漠としたことしかいえない。
学校に頼れなかったら、親がふんばるしかないのだが。

自分のいる場所だけが世界じゃないってことをどう、うまく伝達できるのか。
閉ざされた世界から開かれた世界へって、
言葉じゃいくらでもゴタク並べていえるんだけど。

イジメとか軋轢をウケながら大きくなっていくわけで、
程度はあるけれども、イジメっ子、イジメられっ子を経験することは、
必須つーか、いままではみんなしたくなくても経験してきたのだが。

本来、組み込まれている人間の普遍的な下劣な品性を
格差とかにすりかえて問題を大きくしていないか。