西洋哲学試読本

西洋哲学史―古代から中世へ (岩波新書)

西洋哲学史―古代から中世へ (岩波新書)

哲学者というと、『ムーミン』に出てくる「ムダじゃ、ムダじゃ」が口癖のジャコウネズミが頭に浮かぶ。
そのショーペンハウエルばりのペシミスティックな姿勢は、底が抜けたいまに必要な姿勢なのかもしれない。
なんでそんなことを書き出しのか、それは『西洋哲学史 古代から中世へ』熊野純彦著を読んだから。

作者曰く古代ギリシア哲学について書かれた教科書などのテキストは、哲学史に拘泥していて、
要するに「誰が何年に何の著作を発表した」「「汝自身を知れ」といった哲学者は誰」などの
TVのクイズ番組を高尚にしたようなものだと。

んで、そこには原典のエッセンスがまったくといっていいほどふれられていない。それが不満だと。
とはいえ、いきなり、何の予備知識もなしに、岩波文庫アリストテレスの『形而上学』全二冊を
読むのは、蛮勇行為であってWeb2.0の時代にすることじゃないとぼくは思う。
でもしても一向に構わない。

この本は「古代ギリシアと中世哲学」の中から作者が重要であると思われる哲学者とその思想や
時代背景、作者自身の評価・批評、お気に入りの原典引用が、
懐石料理のように美しくコンパクトにまとまっている。
新書という限られた紙幅での高尚な文体は、汚れたぼくの魂までをも洗い流してくれた。
温故知新ではないが、時を超え、新しさを気づかせてくれる。

「経験されていることが、同時に知られているものであるとはかぎらない。
ロゴスがどれほど分明に世界のうちで告げられているとしても、それに気づかない者にとっては、
存在しないもおなじである。ロゴスであり、真理であるものは、けれども、どこか遥か遠く、
かなたにあるわけではない。世界をめぐる経験それ自体のなかで、ロゴスがしるしづけられている」

「過ぎ去ったものが、ただたんに過ぎ去って、いまはすこしも存在しないのなら、過ぎ去った
ものはそもそも存在したと言えるのだろうか。かけがえのないそれぞれの経験が、私にとって過ぎ去って
ふたたび帰ることがないのなら、私の生涯という私の経験の総和は、いったいなにに対して過ぎ去るのだろう。
あるいは、だれに対して現前するのだろうか」

昨年、フーコーの『愛と性の歴史』を通読したのだが、
二巻目でプラトンなどギリシア哲学についてふれていて、ぼくはその魅力に再発見させられた。

この本は一般向けなんだけど、しいていうなら、
大学の哲学の講義最初のテキストにふさわしい内容だという気がする。
昨今、WebやCDショップでアーチストの新譜が試聴できるけれど、感覚的にはそれに近い。
西洋哲学試読本。

ついでにいうなら、この本を概論にしたら、次は原典に当たるわけだが、
その際、できるならば、英語のものがいいだろう。
難しい日本語翻訳も、英語で読んでみると意外と平易だったりする。
ギリシア語がいちばんなのはいうまでもないけど。

あとがきに続巻の構成が紹介されているが、デカルトからレヴィナスまで。
こちらも楽しみ。