一人置きに座っている

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朝の電車、席がきれいに一人置きずつに埋まっている。
みんながみんなマスクをして。
整然としているので、そのバランスを崩すのは悪い。
 
でも、座ってゴースト・ストーリーのアンソロジーの文庫本、
続きを読みたい。いいとこなんだ。
どうしよう。
 
電車の車輛で開いていない窓があった。
どこからともなく自粛婦人警官が来て窓を半開。
ガーゼマスクには、菊のご紋が。
 
街にも自粛警察が出動中。
ノーマスクは、ノー!ノー!
若いお二人さん、濃厚接触はノー!ノー!

あれほどなかったマスクはあちこちで投げ売り。
マスク成金の夢は消えたようだ。
 
新型コロナウイルス感染症 (COVID-19)の新はシンゴジラのシン。
シンゴジラは東京を破壊したが、目に見えるところを壊した。
新型コロナウイルスは世界中で猛威をふるって人を死に至らしめるばかりか、
目に見えないところやメンタルまで痛めつけた。
 
そうこうしているうちに渋谷駅。
何人かが下車した。
うまいこと、一人置きに座れた。
 
ゴースト・ストーリーの続きを読む。
念入りな手洗いとアルコール消毒で荒れ放題の指でページをめくる。
 
一人置きに座っている
 

図に乗る図録

 

へそまがり日本美術 禅画からヘタウマまで

へそまがり日本美術 禅画からヘタウマまで

  • 作者:府中市美術館
  • 発売日: 2019/03/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 一転、涼しい。梅雨寒のよう。

 
アフター6ジャンクション。「日本翻訳大賞」の話。
◆20時 翻訳家たちにいろいろ聞いてみる特集 by柴田元幸岸本佐知子、斎藤真理子
タイムフリーで聴かないとガイブンファンは損しますぜ。
 
 
ちなみにこういうのも。「日本本厄大賞」
笑っていただければ幸いです。
 

 

『へそまがり日本美術 禅画からヘタウマまで』府中市美術館編・著を読む。つーか、見る。
行きたかったけど行けなかったので、せめて図録で。
美術は大前提に「真・善・美」がある。
山のようにうまい作品はある。
でも、素朴なヘタなものにひかれる。
よくTVで「絵の下手な芸人特集」とかあるが、
この図録は負けていない。
まずは「禅画」。いやあ自由だ。

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次が「俳画」と「南画」。
しりあがり寿も真っ青。

 

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西洋からアンリ・ルソー
どことなく矢吹申彦風。
 
ルソーの流れで強烈なのが三岸好太郎
幻想小説のカバーに起用したい。
 

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で、ヘタウマだ。代表で湯村輝彦蛭子能収の絵が掲載されている。
ヘタヘタでもない。
 
「お殿様の絵の謎」
殿さまよりも絵師に向いている方もおられたようだが、
徳川家光の木兎や兎の図のきもかわゆさ。

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ためつすがめつ。瞬時、救われる。
画像を引用して貼り付ける。
個人のブログなんで大目に見て。

 

モリガールとヤバガール

 

 なんだか街も電車も人も増えているような気がする。

生存のための、喰っていくための見切り発車なのか。
律義にマスク姿で走っている人を見る。酸欠にならないのかな。

『「盛り」の誕生 女の子とテクノロジーが生んだ日本の美意識』久保友香著を読む。
つーか読んでからかなり日にちがたってしまった。
日本の女の子たちがいかにして盛りを楽しむようになったのか。
その歴史と背景にあるものを作者自身の個人的体験、私史をまじえながら考察したもの。
 
つけまつげ、カラーコンタクト、日焼けサロン、ポケベル、ルーズソックス、
いわゆるチーマー、渋谷109、で「1995年にプリクラ機が発売」される。
この頃、松濤に会社があったから、毎日、アムラーだの、ヤマンバギャルを見ていた。
プリクラは世界的にヒットしたそうだが、

「日本の女の子たちがプリクラで目指す顔は、絶対的な良い顔ではありません」

 


意外。

「彼女たちが目指すのは、彼女たちが所属するコミュニティの基準に基づく、相対的な良い顔である」

 

「ウケル~」ってヤツか。「KY」とか横並び志向。
 

ナチュラルなビジュアルに執着しない日本の女の子たちが、バーチャル空間上のビジュアルを、所属するコミュニティの基準に従って相対的に作る行動が「盛り」である。「盛り」はコミュニティとの関係で行なわれるものである」

 なんとなくわかる。女の子たちに人気のあるタレントやアイドルって絶対的美人は

さほどいないものね。

「バーチャル空間上のビジュアルと、リアル空間上のビジュアルとの間に、ズレがあってもよいと肯定した。そしてそのズレを「盛り」と呼んだ」

 ズレを楽しむ。それが「カワイイ」「ヤバい」ってことになるのか。

男性ならパケ写(パッケージ写真)で選んだエロDVDが、いざ映像になってズレがあったら怒るけどね。
フウゾクでパネマジ(パネルマジック)にひっかかて別人が現れてもも怒るけどね。
 
インスタ映え」の「映え」と「モリ」は、同義語なのだろうか。
作者はこう述べている。
「インスタグラムでの女の子たちによるシーンの「盛り」は、「非日常性」を高める方向だと考えられる」
「(そうすることで)大人や男性に「容易に近寄らせない」仕掛けを作ることができている」

 女の子たちの聖域、サンクチュアリ。ゆえにインスタは人気だと。

「盛り」は、国境や人種の垣根をらくらくと乗り越えていく。ってことらしい。
 

ヒトは、白紙じゃ生まれてこない-3

 

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (下) (NHKブックス)

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (下) (NHKブックス)

 

 

 
ひきこもって、仕事。合間に、『人間の本性を考える 心は「空白の石版」か(下) 』スティーブン・ピンカー著 山下 篤子訳を、やっと読了。
 

「1910年12月かそのあたりに、人間の本性は変化した」

 というヴァージニア・ウルフの言葉を引用して、

しかしウルフがいいたかった変化の表象である「モダニズムという新しい哲学は」「ポストモダニズム」まで先送りされ、結局「人間の本性」なんてちぃとも変わってないと、ピンカーは勇ましく述べている。
 
モダニズムの一例として

「建築は工業原料を使って箱型につくられる『住むための機械』になった」

 と。


モダニズムを総称して「マゾヒズム」を享受する的記述は、首肯できる。
プレモダニズムが奔放なヴィクトリア時代で、その反動がにより、
ある種、ストイックなモダニズムが流布する要因となった。
 
ただいくら設計者が自分のコンセプトを押しつけようが、
居住者は、やっぱり、ダサいマイ・ライフスタイルを実践する。
なんだっけ、「住めば都」。
インテリア雑誌に出てくるような住まいって、ウソくさいというよりも、マゾっぽさを感じる。
ガマンしてるんだろうな。美意識に緊縛されて。
クサヤの干物なんて絶対、キッチンじゃ焼かないんだろうな。
散在してつまらないものを買った後は、
罪の意識からか財布のヒモをギュッと締める婦女子のようなものか。
 
ネクタイの幅が広くなった後は、狭くなる。
スカートの丈が短くなった後は、長くなる。
しつこい?もうやめます。
 
モダン、ポストモダンを問わず、アートは表現よりもコンセプトが重んじられるようになり、一般ピープルは、美術評論家のセンセイ方などの解説にひれ伏して、
言葉で理論武装されたアートをありがたがるようになった。

わかる、わからないは別にして。てゆーか、大概はわからないんだけど。
でも、何かしら気にいれば、それはよし。として。
理解できるけど、つまんない具象と、わかんないけど、なんか感じる抽象。だったら、
やっぱ後者だと思うし。あんまり的確じゃないかも。
 
ジェンダー なぜ男はレイプするのか」って期待できるチャプターだったが、
斜め読みじゃ、何がいいたいのか、はっきりいってよくわからなかった。
わからなかったし、そ、そおかなという違和感も。
 
ここらへんは、きわめてナイーブ、ぼく自身も覚悟していわないといけないので、
熟考していかないと。ヘヘッ、腰砕け野郎め。
 

ヒトは、白紙じゃ生まれてこない-2

 

人間の本性を考える  ~心は「空白の石版」か (中) (NHKブックス)

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (中) (NHKブックス)

 

 『人間の本性を考える 心は「空白の石版」か(中) 』スティーブン・ピンカー著 山下 篤子訳の感想メモ。

 
このあたりで、ようやく読むスピードがあがってくる。
ともかくこの本は、タイトル通り、人間のプリンシパルな部分を再検討しているので、
こちとらも頭で噛みしめないといけないので、匍匐前進状態。なかなか先へと進めない。
 
「道徳的茫然」の章がやけにひっかかるので引用。

「人は道徳のルールを普遍的なものだと感じる。たとえば殺人やレイプの禁止令は、好き嫌いやファッションの問題ではなく、超越的、普遍的な根拠をもっている。人は、不道徳な違反行為をした者にそれなりの損害を与えるのは正しいと感じるだけでなく、損害を与えずに「見逃しにする」のはまちがっていると感じる。「ブロッコリは好きじゃないけど、君が食べるのはかまわないよ」と言うのはなんでもないが、「人殺しは好きじゃないけど、君がだれかを殺すのはかまわないよ」とは誰も言わない。中絶賛成派の人たちが貼っている「中絶に反対なら、しなければいい」というバンパーステッカーが的はずれなのはこの理由による。中絶は不道徳だと信じている人にとって、ほかの人たちが中絶を許すのは、レイプや殺人が選択肢ではないのと同様に選択肢ではない。だから人びとは天罰を祈願したり、国が強制力のある罰則を制定することを願ったりするのを当然のことと感じる。バートランド・ラッセルは「道徳家はやましさをともなわない残酷な処罰を喜ぶ-だから彼らは地獄を考案した」と書いた」

 

 
ほかにもよくカッコつけて、「世論やリサーチは疑え」とかいいたがるけど、そんなことをいう方を疑ってみるのもいいだろうと。
 

「人は、不道徳な違反行為をした者にそれなりの損害を与えるのは正しいと感じるだけでなく、損害を与えずに「見逃しにする」のはまちがっていると感じる。」

このあたりが、すごく納得できて、怖さを感じる。自分のことは棚にあげて。あるいは五十歩百歩かもしれないのに、なあ。

 

たとえば嫌煙権。伏流煙は喫煙していない第三者に肺ガンを発病させる可能性がある。
しかも街中で喫煙するのは、マナー違反だ。だから注意を喚起しても悔い改めないものに対しては、罰を与えてもかまわない。(自分以外の)マナー違反の喫煙者が該当するなら止むを得ない。いってきかなきゃ罰則だ。というのは知らず知らず子どもにしているんだけど。
旬な話題だと、自粛警察。
 
道徳、倫理、公共心…。
絶対的なものに思いがちだけど、実は相対的なもの。きわめてタマムシ色。
シーソーに乗った子どもたちのようなもの。
かたっぽが重くなると、そっちへなびく。逆も同じ。
 

ヒトは、白紙じゃ生まれてこない-1

 

人間の本性を考える  ~心は「空白の石版」か (上) (NHKブックス)

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (上) (NHKブックス)

 

 

 

 

『人間の本性を考える 心は「空白の石版」か 』(上)スティーブン・ピンカー著 山下 篤子訳を読み出す。
全3巻だけど、青土社あたりのハードカバーなら1冊だな。


「人の心は「空白の石版」であり、すべては環境によって書き込まれる」

 という常識、「タブー」に挑んでいるそうな。

「空白の石版」という文学的表現、
ほら、私の心は真っ白なキャンバス、あなた色に染まります。とか、
そんなことをイメージしてしまう。
「からっぽになる」という言い回しはあるけれど、
正真正銘「からっぽになる」わけじゃない。
 
関連レビュー。

『ヒトの意識が生まれるとき』大坪治彦著
 
< ヒトは、白紙じゃ生まれてこない。 >
よく言われることだが、人間以外の哺乳動物は、生まれてすぐ独り立ちができる。
それに比べて人間の子どもは「まったく頼りなく、無力である」と。
 
ところが、本書によれば、人間の赤ちゃんは、お母さんのお腹の中にいる時から、強い光に反応し、低い音にも反応するなど「貪欲に外界の環境や事物を自分の内側に取り入れようとしている」そうだ。

最新の発達心理学によると、子どもの意識のスタートラインは、誕生ではなく胎生期とすることが大勢を占めるようになってきたとも。
 
作者は「人間は白紙の状態で生まれ」そして「(2~3歳を過ぎた)幼児期において意識が誕生する」と固く信じている人々にNo!を突き付けている(ちょっと大げさ)。
 

「大脳の機能、大脳の働きを前提にすると、胎児の場合、胎生7~8カ月以降に『意識』が存在するものと考えられる」

 

ものごころは、すでに、母胎の中でついているのだ。
作者は、視覚機能や聴覚機能など認知能力の発達を胎児、早期産児、新生児でのさまざまな実験により検証している。
 
本書に、母乳運びをした父親は、子育てに協力的だというデータが載っている。
そうなんだよなと大きく納得するぼくも、数週間ほどだろうか、
毎日のように冷凍母乳を仕事場に行く前に病院に運んだ。もう昔のことになる。
 
子どもは、早期産児、いわゆる未熟児だった。生まれてすぐに、近所の産婦人科から大きな病院に移され、哺育器暮らしが続いた。
箱入り娘と呼んでいたが。まだ、自分の力で母乳を飲むことができないので、
口の中に管を通され、わずかばかりの運ばれた母乳を飲んでいた。

幸いなことに、子どもは、小さいだけで、後は元気いっぱい手足を動かしていた。
白衣に着替え、白い帽子をかぶり、両手をイソジンでよく消毒してから、中へ入る。哺育器の円い穴からそっと手を入れると、小さな手が握り返してくる。そりゃ、協力的になるよな。
 
「ヒトの『意識の誕生』は、他者とりわけ親(母親)との交流によってなされているといってもよい」と考える作者は、「子育ては単なるハウツウではない」と述べている。
別段、早期教育だのクラシック音楽を聴かせるといった胎教も決して薦めてはいない。

大切なのは、よく語りかけ、愛されている実感を伝えることだという。「子育ては妊娠中からはじまっている」のだから。
 

再読、読了

 

辻 (新潮文庫)

辻 (新潮文庫)

  • 作者:古井 由吉
  • 発売日: 2014/05/28
  • メディア: 文庫
 

 

持続化給付金、申請する。
どうなることやら。
 
合間の合間に、『辻』古井由吉著、再読を読了。
しかし、「辻」だ、辻。人生の辻。現実の辻。
辻では道が交差して出会いや別れが生じる。
 
老い、病、衰え。臭い、闇、黴、埃。
いかんいかんとは思いつつ、作者の世界に入り込んでしまう。
性的行為もエロスよりもタナトスのほうを感じてしまい、
痛いのだが、現実はこうなんだと認識させられる。
 
いつもは虚勢やミエやインチキ教養でグルグル巻きに理論武装している自分が
どんどんそれらを剥かれて、丸裸にさせられていってしまう。
そんな自分に対峙したくなくて、視線をそらすが、
作者は執拗に目をこじ開けさせんばかりに、現実を見せつける。
因幡の白兎ならば、ガマの穂で癒されるんだけど。
 
最近、よく自分が10代、20代、30代の頃に知り合った人たちの夢を見る。
車座になっている。会いたい人もいるし、会いたくない人もいる。
夢は残酷なのか、本人の気持ちなんざお構いなしで、無分別に並べ立ててくる。
 
もう一つたまに見る夢は、場所は自分の住まいらしいのだが、
ほくはその家の子どもらしくて、家族が父親を探している、なぜか。
あれ、父親はオレじゃないのかと疑心暗鬼になって目が覚める。
深層心理で父親になることを拒否でもしているのだろうか。
なんかつげ義春の漫画っぽい
 
この短篇集の一篇から映画をつくる人が出てきたらなと思う。
90分程度のTVドラマでもいいけど。
 
マジほろ苦いっす、キリンラガービールみたいに。
ラガーの苦味(くみ)を好まれるオトメじゃなかったオトナチックなあなたには、おすすめ。シェフのおすすめサラダ。
 
突然、二択問題。
さて、どっちを選ぶ?
a.これも小説 b.これが小説。
ぼくはb。