生き方としてのインターネット。その光と影

 

 

ネクスト』マイケル・ルイス著 熊谷千寿訳を読む。

 

インターネットではプロもアマもない。大人も子どももない。男と女もない。阪本啓一氏の著作『パーミション・マーケティングの未来』からの言説を付加するならば、「デジタルであるとは、リアルワールドでのパワーが効かないことである」「デジタルであることは『組織』がなくなり、『個人』が前面に出ることである」。つまり、それが「ネクスト」の意味するものである。

 

オンラインのアンファン・テリブル-恐るべき子どもたち、をはじめとして、本書には冒頭で述べたようなことが作者のインタビューによる実証例として出てくる。

 

たとえば、インターネットで「株式をだまし取り」「株式詐欺容疑をかけられた」15歳の少年。未成年なので少年は母親名義でインターネットで株の売買を始める。やがて本人の才覚で80万ドルを儲ける。未成年だから株式取引はいけない。その一点だけで、詐欺罪が成立するのか、どうか。作者が述べているように「違法な取り引きと合法な取り引きのちがい」は突き詰めていくと、明快に線引きできないような気がする。

 

次もまた15歳の少年の話。インターネット上で「法律問題の助言」を与えるいわばサイバー弁護士。彼はそのサイトの「法律エキスパートの部門」で並みいるプロの弁護士よりも、高くランキングされる。法律の知識が皆無に等しいにもかかわらずにだ。

 

「中央のコンピュータ・サーバーの力を借りずにインターネットを通じて共有するソフトウェア」グヌーテラの賛同者である14歳の少年は、本や音楽を時には不法にダウンロードして楽しんでいる。彼には作者以外にある知的所有権という概念が理解できない。それには従来の資本主義を崩壊させる、社会主義的においを感じる。彼の精神には、インターネットにより新たな社会主義が芽生えていると。

 

子どもの教育にはネットリテラシーが必須であるなどと四角四面に考えるのも良いが、16歳でイギリス・プレミアリーグで得点を挙げた少年と同じように、その才能を評価してみるというのは、いけないことだろうか。

 

イギリスのネオ・プログレッシヴ・ロックバンド「マリリオン」のサクセスストーリー。お金がなくアメリカツァーをしたくてもできなかった彼らに対して、熱狂的なファンがWebサイトで呼びかけてアメリカツァーの費用を捻出する。ゴタゴタうるさいレコード会社ではなく自主制作、インディーズでアルバムを出した。その制作費もWebサイトで募集した、しかも前金で(クラウドファンディングの先駆け)。いわば予約販売なのだから、在庫を抱えることもない。これはビジネスとしても固い。
「人々との熱意とつながる幹線ができたおかげて、インターネットが使えなかったころよりも、ずっと精神的になりました」。
メンバーの一人がこう語っている。これは息抜きともいうべきエピソードか。アメリカのロック映画の秀作のような心地良さを味わうことができた。

 

ただし、タイトルがこれでは、売れるものも売れない。子どものインターネット犯罪ものかと思ったら、それよか、全然、エッジの鋭いものであった。

 

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1960年代の「死の家の記録」

 

 

『穴持たずども』ユーリー・マムレーエフ著   松下 隆志訳を読む。

 

まずは、チモフェイ・レシェトフの解説から、この作品が書かれた時代背景を引用。

 

スターリン死後の1953年、N・S・フルシチョフが権力の座に就いた。彼は国内で一連の自由主義改革を実施し、結果として国家の文化政策が著しく見直された。(非マルクス主義的な)哲学書、宗教書、神秘主義文献など、以前は禁止されていた本にアクセスする道が開けたのである。50年代末、マムレーエフの周辺では、ソヴィエト的現実の枠をはるかに超える関心を持つ人々のサークルが形成されはじめた。これらの人々は図書館の書物で世界の伝統を学びながら、独自の内的探求を行なっていた。彼らは図書館の喫煙所で知り合い、交流した。哲学者、神秘主義者、芸術家、詩人、作家など、多くが社会的な面でマージナルな存在だった。彼らを一つにしていたのは、ソヴィエトの唯物論イデオロギーに対する確固たる不承認だった」

 

このサークルが作品の動機になっていると。

 

頃は1960年代。場所はモスクワ近郊。主人公フョードル・ソンノフが現われる。彼は、いわば、シリアルキラー。しかし、殺人よりも自身の死の世界を希求する。彼が住んでいる共同住宅には、類は友を呼ぶというのか、アダムス・ファミリーよりも、いっちゃっているフォミチェフ・ファミリーの人々がいる。「異常性癖の」クラーワ、ゴミ漁りに夢中なリーダ、自分の肉体を貪り食らうペーチュニカなど。


さらに「敬虔な」キリスト教徒だったのに、なぜか屍鶏に変身してしまった老人ニキーチチ、去勢したミヘイ、「グノーシス的神秘思想の信者で形而上的娼婦」アンナ(よーわからんが結構、魅力的)など、変態ばっか。死と退廃のニオイが濃厚に漂う「形而上派」のメンバーたち。


社会主義体制のソ連の不自由感や閉塞感に不満を覚える人々はイデオロギーのもとに反体制派を標榜する。させられる。小説もSF風味のディストピアものなら、読んだことがある。でも、ザミーチャンの『われら』は、1920年代の作品。この作品が掲げる旗はイデオロギーではなく、カルトやエゾテリスム(秘教)。目には目を。唯物論には形而上学、か。

 

1960年代はヒッピーなどカウンターカルチャーが世界的に広まった。偶然かどうかは知らないが、ソ連でもこのような流れがあったとは知らなかった。マージナル(辺境)における「マージナルな存在」、それが「形而上派」。

 

『まなざしの地獄』見田宗介著の最後の一文が、どんぴしゃ。

「われわれの存在の原罪性とは、なにかある超越的な神を前提とするものではなく、
われわれがこの歴史的社会の中で、それぞれの生活の必要の中で、見捨ててきたものすべてのまなざしの現在性として、われわれの生きる社会の構造そのものに内在する地獄である」


訳者あとがきによると「ソローキンに影響を与えた作家」らしい。アングラっぽく、グロいところかな。ホアキン・フェニックス主演の映画『ジョーカー』を見たときのような苦さ、やるせなさを感じた。


タイトルの「穴持たず」とは、冬眠せず凶暴化したクマを意味する言葉だそうだ。
通常ではない異常なクマ、それはまさしくフョードル以下この作品に登場する人物たちのことだろう。

 

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クラシックな文学の香り、漂う、怖い話

 

 

『ゴースト・ストーリー傑作選 英米女性作家8短篇』川本静子・佐藤宏子編訳を読む。


「19世紀半ばから20世紀初頭」ブームとなったゴースト・ストーリー。訳者あとがきによると、この頃のゴースト・ストーリーのうち、なんと「70%が有名・無名の女性作家」だったとか。その中から英米各4篇の作品をチョイス。

 

何篇かの作品のあらすじや感想をば。

 

『冷たい抱擁』メアリー・エリザベス・ブラッドン著 川本静子訳
画家である男は身寄りがなく父の兄に面倒をみてもらっていた。男と伯父の娘・ゲルトルーデは二人で結婚を約束していた。男は画家として成功するためにイタリアに旅立つ。彼女は手紙を出すが、次第に返信は滞りがちに。父親は一方的に金持ちとの結婚を決めてしまう。男は結婚式の日に戻って来た。河岸で自殺した溺死体を目撃する。それはゲルトルーデだった。男は逃げるように立ち去る。それから、事ある度に「冷たい両腕が男の首に巻きつく」。華奢な指。男が婚約指輪としてあげた蛇の指輪が。
彼女なのか。憔悴しきった男。「冷たい両腕が男の首に巻きつかれ」て絶命する。

 

『ヴォクスホール通りの古家 』シャーロット・リデル著 川本静子訳
父親と諍いの絶えないグレアムは、文無しで今夜泊まるところにも困っていた。とある屋敷を覗き込んで再び歩いていると、屋敷から声をかける者が。かつてグレアムの家で使用人をしていたウィリアムだった。彼が一時期住んでいたという。屋敷はすっかり古びていたが、元は名家の屋敷だったとか。なぜ彼が住めるのか。持ち主の妹が金目当ての強盗に襲われ殺されたから。訳あり物件。

グレアムはその夜、悪夢を見る。守銭奴のような老婆にうなされる。ウィリアムの家族も最初は一緒に住んでいたのだが、夜中、足音や声が聴こえると気味悪がって屋敷を出た。屋敷を探る。妖しい声は幽霊ではなく二人の泥棒だった。グレアムは、泥棒たちが見つけることができなかった株券や証文などのお宝を手にする。意気揚々とその顛末を父親・クールトン提督に話す。

 

『藤の大樹 』シャーロット・パーキンズ・ギルマン著 佐藤宏子訳
「子どもをください」と母親に懇願する娘。手は、「小さな紅玉髄(カーネリアン)の十字架を握りしめ」ている。娘は望まれない出産をした。父親は従兄との結婚を強引にすすめようとしていた。故国から船に乗せた蔓植物は成長が著しい。…「お化け屋敷」のような家。藤の大樹が屋敷のあらゆるところに蔓を這わせている。藤の樹が屋敷を崩壊から防いでいる。若い夫婦たちは、物件見学というよりも幽霊探し気分。地下室で作業をしていた大工たちが声を挙げる。根本に女性の白骨死体があった。「小さな紅玉髄(カーネリアン)の十字架」が首に。
『黄色い壁紙』の作者ならではの作品。蔓は、社会、男性からの女性への拘束の象徴か。

 

『ルエラ・ミラー』メアリ・ウィルキンズ・フリーマン著 佐藤宏子訳
ルエラ・ミラーは気品漂う老婆。若い時分は美貌で鳴らした。なぜか彼女の周囲では次々と不審死が起こる。その様子を見ていた老婆・リディア・アンダーソンは語る。ぴんぴんしていた彼女が突然、今は廃屋となったルエラ・ミラーの屋敷で亡くなっていた。真相などは書いてないし、書く必要もない。今でいう都市伝説のようなものか。

 

『呼び鈴』 イーディス・ウォートン著 佐藤宏子訳
ハートレイはレイルトン夫人の姪のプリンプトン夫人の屋敷の小間使いとして雇われることになった。彼女の前任者、エマ・サクソンは病死したという。プリンプトン夫人の夫は仕事の都合か、屋敷にはほとんど滞在しなかった。屋敷内のとある部屋で人影らしきものを見る。プリンプトン夫人は腺病質だったが、物静かで優しく、使用人たちとも和気あいあいだった。ところが、突然、夫が帰宅すると、空気は一変する。夫は、夫人が友人のランフォードと懇意にしていることが面白くない。呼び鈴が鳴る、奥さまだ。向かおうとする前を誰かが先を行く。後日、再び呼び鈴が鳴る。しかし、奥様は鳴らしていないと。死んだエマ・サクソンが現われる。夫婦に悲劇が訪れる。

 

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気分は『フィネガンズ・ウエイク』を読んだダブリン市民

 

 

『エセ物語』室井光広著を、やっとこさ、読む。

 

作者、最後の未完の長篇小説。すごいと思う。面白いとは思う。しかし、しかし、ちゃっちゃとは読めない。とにかく時間をかけて読み進める。長距離読者の孤独である。

 

一応、内容を紹介してみる。「私の双子の妹と結婚していた」かつての夫(外国人)の膨大な遺稿集を読み解くもの。ユダヤ人ゆえ日本語名。重(ジュー)氏。重氏は、「西洋人(ユダヤアメリカ人)と東洋人(台湾のチャイニーズ)の両方に血脈を持つ」。「晩年は東アジアに関心を深めて」おり、遺稿集の章立ても「陰陽五行」を踏まえたものだと。

 

各章のタイトルからして笑える。たとえば、「おらおらでてんでんごにいぐも」。若竹千佐子の小説『おらおらでひとりいぐも』と「てんでんご」*の掛け合わせの妙。座布団、何枚だ?

 

そも、『エセ物語』は『伊勢物語』のもじりだそうだ。作者は会津、ぼくは中通りの出身。同じ福島県でも、方言はかなり異なる。でも、わかるものもある。「え」を「い」と訛って発音する。ぼくの高校時代の現国の先生がそうだったことを思いだす。「江戸(えど)時代」が「いど時代」、「助手の添田(そえた)さん」が、「そいたさん」。

 

地元の人々は「私(わたし)をアダシと発音する」、訛って。「私(アダシ)の」が、「化野(アダシノ)」(京都の風葬、火葬の地)になる。

 

かような壮大な言葉遊び。ナンセンス文学は、意味がないことに意味があるのだが、この作品はナン-ナンセンス文学。意味がありすぎることに意味があるのか。うーん、まだ、未消化。


宮沢賢治は「イーハトーボ」、井上ひさしは「吉里吉里人」、漫画家ますむらひろしは「アタゴオル」と偶然、東北出身の作家・漫画家が故郷をユートピア化やディストピア化しているのは、風土に関係しているのだろうか。

 

作者は出身地である福島県南会津郡下郷町を「下肥町」の変換して、「願いとコエはよくかけろ」と素敵なスローガンをつくっている。

 

アイルランド人がジョイスの『フィネガンズ・ウエイク』を読む感じなのかな。柳瀬尚紀、渾身の翻訳『フィネガンズ・ウエイク』を読んだが、上巻半ばでギブアップしてしまった。この作品は、へろへろになりながら、読了にはこぎつけることができた。

 

小説に攻められたいM気質の読者の人なら、おすすめする。のたうち回ること必至(必死)。あ、感化されてる。

 

おまけ。この作品で「あんにゃ」と「おんつぁ」が出て来る。あんにゃは、兄貴、兄い、若い兄さんのことだが、30代になっても独身でバイクやオーディオやアイドルなどの趣味に夢中になっている男性を蔑む意味でも使うと。大人げない大人。で、対語が、おんつぁ。おじさん、おっさん、中年男性を意味する方言。なんだけど、「この傘、おんつぁになった」とかも言う。この場合、壊れた、役立たずの意味で使っていた。

 

*「てんでんご」津波が来たら家族は各自ばらばらに逃げるという三陸地方などでの伝統的な避難方法

 


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『きみの友だち』or『君の友だち(You've Got a Friend)』

 

 

子どもが読みたくて近所の書店を数件回っても見つからなかった重松清著の『きみの友だち』。妻がamazonで頼んだら、翌日には届いた。町の小さな書店はかなわないわけだ。あっという間に読んでしまったようだ。どれどれと空き時間に一つずつ読んでいる。

 

子どもは同じクラスの女の子からの紹介、いわゆるクチコミ(バズる)で知ったらしい。
クチコミだとか、好きなタレントの好きな本だとか、そういう影響は若いほど、大きいようだ。

 

『きみの友だち』と聞いたとき、キャロル・キング?ジェイムス・テーラー?の曲かと思った。この曲、かなり好きな曲なもので。やっぱ(死語)、キャロル・キングの方っしょ、選ぶなら。

 

いつぞやTBSの『王様のブランチ』に作者が生出演したとき、小説のネタ元は妻子からといっていたけど、耳をダンボにして(死語)小説に反映させている。


読んでいて、特に女の子の世界、派閥争いなど、たまに子どもが話してくれる学校のことと見事にオーバーラップしている。

 

足の悪い恵美ちゃんと重い病を抱えた由香ちゃんを中心にさまざまなキャラが登場する。ハンディを背負った子に対して抱くのは、友情なのか、同情なのか。つい憐憫の情で必要以上に過剰に大切に接したりして、それがまた当人にはうざかったりする。この小説から、ぼくも小学校のときにいたそんな級友を思い浮かべていた。どうしているんだろうな。

 

仲良しになって、ケンカして、また仲良しになって…。その繰り返し。傷つき、悩み、怒り、泣いて、笑って、そんなことから成長していき、生きることを身につけていく。

 

それと巧すぎるのだろうか、どうも重松の作品は小説としていつも若干のザラつきを覚えてしまう。それは何なのか。まだうまくいえないんだけど。

 

昔、書いたレビュー。『つづれおり』聴かなきゃ。


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ユーモラスな無頼派―木山捷平伝

 

 

『木山さん、捷平さん』岩阪恵子著を読む。閉めていた日本文学の引き出しを久しぶりに開けさせられた。

 

評伝を書くために作者は資料を漁る。木山にゆかりのある土地を訪ねる。そうこうしているうちに、作者の中に木山という人間像が組み立てられていく。

 

文学好きの父親の血をひいてか、農家の後を継がず、作家の道を諦め一度は小学校の教師になるが、諦めきれずに上京する。売れっ子作家とは無縁の人生を歩むが、次第に作品が評価され、知己も増え、所帯をもってどうにかこうにかの人生を歩む。淡々と自分の心情を吐露する詩人、私小説作家、文士となる。

 

敗戦濃厚な日本じゃ息も詰まるし、好きな酒も飲めないというので、二度目の満州行きをする木山。

 

痩せこけて栄養失調状態で満州から引き揚げるが、ともかく酒、ないときはアルコールまでに手を出して体内暖房とコレラ予防のため消毒にせっせとつとめていた。

 

後先を考えない無鉄砲ぶり。臆病なのか、大胆なのか。作者が敬愛してやまない作家・詩人の先達だけに、あたたかな視線で人となりや生き方がよく見えてくる評伝。

 

知らなかったけど、木山は井伏鱒二のいわゆる荻窪グループの一員だったそうだ。井伏を対象に神林暁、小沼丹尾崎一雄(彼は荻窪グループではないが)など読んだことのある好きな作家が登場して、うれしくなる。あとはトンビ(インバニスコート)を一分の隙なく着こなしたダンディな太宰治もちらと登場する。

 

木山は詩と小説をこなす人で、晩年まで小説はその作風が井伏の亜流のように見なされていたそうだ。作者も書いているが、詩は、やはり山之口漠と共通しているものがある。詩も何篇か紹介しているが、ぼくはどちらかというと若い時分の詩作がモダンで青くて好みだ。

 

本文にユーモアの書ける・書けないは作者の資質、天分だというくだりが出て来る。誰か作者以外の人が木山を賛辞して使っているのだが。私小説作家=無頼派固定観念が定着しているが、木山はユーモラスな無頼派。太宰の「人間失格」のトラ(トラジティ:悲劇)とコメ(コメディ:喜劇)の分類合戦がふと頭をよぎった。

 

しかし、戦前に二回芥川賞にノミネートされて落選したときの落胆振りはすごかったとか。でも、人前では「飄々」としている。こりゃかなりのやせ我慢の人だ。晩年の小説は、完全に独自の作風を完成したそうだ。付記しておく。

 

ううんと高田渡とか志ん生とか好きな人なら、リコメンドする。これで小難しい重たいアフォリスムをいうとエリック・ホッファーになる(ホンマカイナ?)。


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境界域は文明の揺りかご

 

 

『文明の交流史観―日本文明のなかの世界文明』小林道憲著を読む。以下メモ。

 

梅棹忠夫の『文明の生態史観』批判

文明とはそれぞれが独自に生まれ、独自に発展していったのではなく、盛んな「文明交流」によって、発展していった。その部分が『文明の生態史観』にはまったく欠落していると。作者は「媒介」役となった文明に焦点をあて、自論を展開していく。

いみじくも作者は文明の交流を曼荼羅にたとえているが、南方曼荼羅のようにいろんな円から沢山の線がお互いに発しれている、そんなイメージなのだろうか。それがノードになったり、ハブ的な存在が「媒体文明」。

 

○「媒体文明という考え」

「中心文明と周辺文明」だけでは交流は生じない。そこに「媒体文明」がなければ。
「陽子と中性子を結びつけるものとして、中間子がなければならないように」。
また「媒体文明」は、「境界域」で生まれ、育つ。「市場」と作者はいい、ぼくはパッサージュをイメージする。名づければ、カオス市場。渾然となった得体の知れないエネルギッシュなもの。


○「鎖国はなかった」

これは意外だけど、読んでいるうちにそうかあと。昔習った日本史では江戸時代は日本は鎖国政策によって長崎の出島での中国・オランダ以外の貿易は原則禁じられていた。ゆえに、まあ国のひきこもりによって、日本独自の文化が醸成されたと。「否!」と作者はいう。現に出島からヨーロッパ文化が入り込み、日本文化に影響を与えたと。そう鍋島焼とか伊万里焼がヨーロッパに輸出され、その鮮やかな色彩・文様はカルチャーショックを与えたわけだし。このあたりの輸出入のバランスシートだの統計だのが推定でもいいからある程度きちんと算出されると面白いかも。

 

○「人間は交換する動物である」

「人間は交易することによって、その制約を越える。-略-しかも、この交易活動によって、交通が発達し、人々が出会い、文化の交流が伸展する。-略-交易は、文明の相互発展を可能にする重要な触媒である」

 

○「複雑系としての文明」

「西欧文明も、決して自律的に発生や成長をしてきたのではなく、異文化の流入によって発展してきた。特に、西欧文明の勃興に、イスラム文明が果たした役割は大きい」

食いしん坊のぼくは、オスマントルコのウィーン侵略により、「コーヒーとクロワッサン」が伝播したことを即思いつく。

鈴木光司のデビュー作『楽園』を読んでいるような、膨大な時の流れを一気にワープするような眩暈にも似たものを覚える。またはファンタジーノベルやR.P.G.で異国から異国を旅するような感じにも。怪しげなバザールをさすらうような。

 

突然、こんなことが浮かんできた。「媒体文明」=ミーム(ミームの集合体、複合体)とも仮定できるのでは。


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