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帰省したときに

先月、父の一回忌で帰省したときに、
駅のホームから保土ヶ谷化学郡山工場が見えた。
ここで母が女学校時代、空襲を受けた。
防空壕に入れなかった。それが幸いだった。
防空壕に被弾して何人も死んだことを
聞かされた。
焼夷弾のヒューヒューという音も忘れられないと。
家ではきっと亡くなったものと思っていたら、
ひょっこり帰ってきたと。
これは祖母から聞いた話。

ネット検索してみたら、
母の母校の歴史に該当する部分が出ていたので
引用する。

 

昭和19年  ・国家総動員法により、3年生は保土ヶ谷化学郡山工場に、
4年生は川崎市東芝小向工場に配属される。
 
昭和20年  ・米軍機の爆撃を受け、郡山工場で14名が犠牲者となる。

 

◇昭和20年4月12日、直撃弾、爆風などで(保土ヶ谷化学郡山)工場内は次々と犠牲者が続出した。「逃げたが、白女の防空壕に到着しないうちにB29の爆撃が始まった。急いで近くの防空壕に飛び込んだ。壕内は超満員だった。まるで重ねモチだった。身体全体が押しつぶされ、身動きひとつできなかった。失神しそうだった。遠くで女子学生が、”あたしの隣の人が死んでいるわ。あたしを防空壕に入れて”と叫んでいる声が聞こえたが、どうすることもできない。(中略)いつの間にか防空壕の外に弾き出されていた。逃げようと思うばかりで手足はシビレたまま。イザリのようにして前へ進む。ようやく血が通いはじめ、走って逃げ出した。気がついたときは、阿武隈川対岸の村でした。」(昭和21年卒業生)

 

 


「学校の歴史 - 福島県立白河旭高等学校」より

母がいなかったら、ぼくは生まれていない。
終戦の日に。敗戦の日に。

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