ツクツクボウシが鳴いていた

 

一昨日の朝、ツクツクボウシが鳴いていた。
西川のりお師匠じゃおまへんで。
確か、夏の終わり頃に鳴くはず。
狂い鳴きサンダーロードか。

『競争社会の歩き方』大竹文雄著を読んだ。
「競争社会」と聞くと、どうも強者生存、
良いものだけが残るといったエセダーウィニズム的に考えられがち。
作者は言う。

 

「競争のおかげで私たちは自分の長所を見つけることができる。
私たちは、下手に自分探しをするよりは、競争にさらされたほうが、
自分の長所を知って創意工夫ができるようになるはずだ」


独占やカルテルなどで既得権益を手の中におさめていると
不利益しかもたらされない。
もちろん、競争がフェアってことだけど。

平等主義の誤用・誤解の代表的なものが
学芸会で全員主役や運動会の徒競走で着順を決めないことだ。
それに対して作者は言う。

 

「反競争主義的教育で協力する心をもたらそうと考えた教育が、
能力が同じという思想となって子どもたちに伝わると、
能力が同じなのだから、所得が低い人は怠けているからだという
発想を植えつけることにつながった可能性がある。―一部略―
競争と助け合いの両方が大切だという価値観をうまく伝えていく必要がある」

 

なんだか真面目な本と思われるかもしれないので
やわらかいところも紹介。
ご存じくまモンがなぜ人気ゆるキャラになったかを説明している。
「使用料を無料にした」
ただし「熊本県の関連商品や宣伝にしか使えない」。
そこには「現状維持バイアス」が働いて
「一度利用すると継続して利用するようになる」。
多岐に及ぶ具体例が最後まで読むことを飽きさせない。

 

人気ブログランキング

 

「される」と「する」の間


『中動態の世界』國分功一郎著を読んだ。
前から読もうと思っていたが、決め手は
ギリシャ語の時間』ハン・ガン著 斎藤真理子訳。
そこで訳者がこの本を紹介していたから。
ギリシャ語には受動態「される」と能動態「する」の間に中動態という態があった。
今は埋没してしまったが、温故知新。
中動態的視点を有することが、これからのブレイクスルーの端緒となる。

アリストテレススピノザハイデッガーアレントアガンベン
デリダフーコーなど中動態そのものに論考した人と
中動態という言葉は使わないが、偶然か必然か、
中動態の概念とリンクする論考した人のテキストにあたる。
このアルケオロジーが読んでいて愉しい。

個人的にはフーコーの著作をいちばん多く読んでいるので
フーコーの権力論」を引用する。

マルクス主義的な権力観においては、―一部略―
暴力を独占している階級や機構が大衆を抑えつけている」
「それに対しフーコーは、権力を押さえつけるのではなくて、
行為させると考えた」
「権力は人がもつ行為する力を利用する」


「生権力」。
ふだんは隠れ蓑をまとって不可視なのだが、
最近は油断なのか、荒っぽいのか、
可視化する、しばしば。


権力と暴力は違うと。
ただし権力は「しばしば暴力を利用する」

決してやさしくはないが、重要と思われるテキストが続く。

作者の言いたいところを引用。

「完全に自由になれないということは、完全に強制された状態にも
陥らないということである。中動態の世界を生きるとはおそらく
そういうことだ。われわれは中動態を生きており、ときおり、
自由に近づき、ときおり、強制に近づく。
―一部略―(中動態を理解して、取り入れることで)少しづつだが
自由に近づいていくことができる」

 


二者択一、二項選択は一種の踏み絵である。
行動経済学でいうところの
「選択が多いと人は選べない」。
だから、あれか、これか、にする。
踏むか、踏まないか。
踏まないようで踏む、
踏むようで踏まない。
さて、中動態はどっちだ。
メルヴィルの遺作『ビリー・バッド』が取りあげられている。
読みたくなった。

人気ブログランキング

 

麦に頼る夏

涼しかったのが夢のよう。
また東京砂漠でオアシスを探す旅が始まる。
夏休みは涼しい午前中に勉強しましょう。
って言われたけど、いまは朝から暑い。

夏は省エネとか電力会社が口をすっぱくして
PRしていたが、
それを律義に守って高齢者が熱中症
最悪命を落とすからなのか、
なりを潜めている。
原発が稼働しなくても省エネしなくとも
なんとか電力は供給されている。なぜ。

音声データ起こし、完了。

昼は麦茶。夜は第三の麦酒。
麦に頼る夏。

『競争社会の歩き方』大竹文雄著を読んだ。
行動経済学濃度の高い内容。

人気ブログランキング

あおられる

殺人者の記憶法 (新しい韓国の文学)

殺人者の記憶法 (新しい韓国の文学)


台風12号、昨日の夕方。渋谷の歩道橋。
シャワーのような雨が、強い風にあおられる。
映画のワンシーンのようで
そのサマをしばし眺める。
仕事を早めに切り上げて電車に乗る。
さすがに、ガラ空き。

殺人者の記憶法』キム・ヨンハ著 吉川凪訳を読む。
アルツハイマーになった70歳のサイコキラーが主人公。
ノローグで過去と現在が重なり合う。
何せ認知症なんで最近のどころか
さっきの記憶がおぼろげ。
でも、昔のことは覚えているらしく。

なかなかにハードボイルド。
主人公は物忘れ対策でTODOTHINGを
テープレコーダーに吹き込む。
ツイン・ピークス 』のクーパー捜査官を
彷彿とさせる。

最後の殺人から20年経つ。
主人公には養女がいる。
溺愛している娘に最近、恋人ができた。
気に喰わない。
20年ぶりで殺意が芽生える。
クリント・イーストウッドの映画みたいだ。
違ったけど。

ところが、真相が明らかになると
めまぐるしく話が展開する。
同じ事件でも加害者側と被害者側では
かなり印象が違うが。
その差異をいかに魅了させるかが作者の力量。

アイデンティティーは
自分じゃなくて周囲からの見方で創成される。
ゆえに人はいろんなペルソナ(仮面)を持つ。
心理学ですぐに学ぶことだが。

映画化されているのか。だろうね。
舞台化するのもいいだろう。

人気ブログランキング

幸せって何だっけ-4

朝、スズメが急降下。
見ると小さなコガネ虫が瀕死状態。
メタリックな緑色。
青銅金、アオドウガネっていうらしい。
スズメはくちばしでコガネ虫を
はさもうとする。
丸呑みはムリだろう。

『幸福とは何か』長谷川宏著の感想の続き。
ちょっと飛ばして
「第三章 20世紀の幸福論」。
「戦争の世紀といわれる20世紀」。
作者は紙幅を割いてメーテルリンクの『青い鳥』で
20世紀の幸福について考える。

「希望を失わないで生きていくということはどういうことか」


青い鳥は近くにいるのに、気がつかないってことなのか。
分相応というのか、足るを知るというのか。
ふと、こんな一節が出る、往年のフォークファンのオレ。

「私には 鏡に映ったあなたの姿を 見つけられずに私の目の前にあった
幸せにすがりついてしまった」(『22才の別れ』by風)

 

 


んでもって作者はアランの『幸福論』を取り上げる。

「伸びをし、あくびをし、心身の安定とゆとりを取りもどす。
そきに日々の暮らしにおける幸福の基本的構図を見てとろうとするのが、
アランの幸福論だ」

 

 

今、少しづつ読んでいる。
朝日新聞で連載されている鷲田清一の『折々のことば』を
長くしたような短文。
軽妙洒脱。

次にラッセルの『幸福論』を取り上げる。
ラッセルは「常識の立場」から幸福を考える。

「幸福が可能な世界に生きる人びとの、なんとかして幸福を手に
したいという思いに向けて、幸福と不幸のありさまを解き明かしていく―
それがラッセルの『幸福論』の指導的な位置だった」

 


今、少しづつ読んでいる。
こちらは気合を入れて読まないといけないなあ。
21世紀になったが、事態はマイナス方向じゃないだろうか。
最後に作者は、こう結ぶ。

「幸福論は、対象となる幸福に似て、晴れがましさや華やかさとは
縁遠い、地味で、ゆったりとした穏やかなものでなければならない」

 

派手な幸福論をアジテーションする人間には、
眉にツバつけて応じろ。と、いうこと。

人気ブログランキング

しばらくお待ちを

「幸せって何だっけ-4」まで手が出ない。
しばらくお待ちを。
水害の原稿をまとめているんで、心はブルー。
3.11の被災者のインタビューをまとめているときも
だんだんつらくなってきた。

水害といえば、中学生のとき、住んでいた官舎が
地すべりにあった。
家はかろうじて残ったが、
土台の一部がスケルトン。
盛土造成だったんで、盛土の部分が
雨やらたまった地下水やらで崩落。
盛り土と盛りムネはヤバいという教訓を得た。

通勤線の人身事故のニュースを聞いて。
ホームドアにしても飛び込みは100パー防げない。
津波が来るたび、高く再構築する防潮堤と同じ。
古くは万里の長城
いまはメキシコの国境につくろうとされているフェンスと同じ。
そのうち高圧電流が流れて飛び込もうとすると
感電するとか、そうなったりして。

人気ブログランキング

幸せって何だっけ-3

 

季刊誌のビジネス漫画の構成を考える。
つながったんでまとめへ。
原稿用の資料をネット検索。
使えそうなのを出力する。
紙じゃないとダメなんで。
アナログでアナクロ

『幸福とは何か』長谷川宏著の感想の続き。
「第二章 西洋近代の幸福論―道徳と幸福の対立」
作者は神が人間の幸福を支配していた中世をすっ飛ばして
近代へ。
ベーコン、デカルトをさらっと紹介してヒュームへ。

「ヒュームは人間の本性を知性と感情と道徳という三つの面から
明らかにしようとする」

 

 

んでもって伝統的な「理性への信頼にヒュームは異を唱える」。

 

「わたしたちの日々の経験の主体をなすのは、外界との触れ合いのなかで得られる印象であり、観念であり、快楽や苦痛の感情である。神の絶対的支配を背に向けてそのような経験に即くことは、理性的なるものへの懐疑と否認にまっすぐ通じる試みだった」

 


人は理性では動かない。どことなく行動経済学にもつながる。
「ヒュームの経験論」と幸福はしっくりこないようだ。
「道徳と幸福の対立」って自由と平等の対立とも似ている。
道徳を重んじると全体幸福的なものが個人の小さな幸福よりも優先される。
息苦しいかも。逆だと、富める層が優遇となり不平等な社会になるのでは。

次はアダム・スミス
「共感を道徳感情の土台に据えるアダム・スミスの道徳論」
を述べている。
スミスは上から目線じゃなくて考える。

 

「社会に生きることがそのまま共感の経験を積み重ねることであり、
共感の感覚を身につけることだった。社会に生きることがおのずと道徳感情の根幹をなす共感の育成に通じるのだとすれば、道徳をめぐる人的な教育や訓育の類は必要がなく、平静に、沈着に社会を生きることがすなわち人を道徳的にする教育そのもの、訓育そのものだった」

 

 

さすが経済学者。プラグマチックというか性善説的というのか。
人間は学校や会社など組織、社会に入って生き方を学ぶ。
「共感」とは一般的に使う意味ではなく
共通感覚、コモンセンスのことだろう。その延長に幸福があると。
人は人を幸福にも不幸にもする。
この項、ゆるゆると続く。予定

人気ブログランキング