鶴見の言葉を「哲学」として読み直す

鶴見俊輔の言葉と倫理: 想像力、大衆文化、プラグマティズム

 

鶴見俊輔の言葉と倫理 想像力、大衆文化、プラグマティズム 』谷川嘉浩著を読む。

 

なぜ鶴見の著作は読みづらいのか。わかりづらいのか。作者はこの疑問を解き明かすために、この本を書いた。

 

ぼくは鶴見俊輔の著作や鶴見について書かれた本やインタビューなどを読んできた。

で、他の日本人の哲学者の書くものよりは、わかりやすいと思っていた。アメリカでプラグマティズムを学んだからなのかなと単純に考えていた。

以下引用と感想など。

 

「哲学者のルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの言葉を借りるなら、鶴見は、何かを明瞭に「語る」のではなく、暗黙に「示す」という表現形式を選んだということだ。直接的に伝えたい事柄を語るのではなく、間接的に語ること。―略―端的に言えば、鶴見は、エピソードの断片を継ぎ合わせ、<編集する>という仕方で、自分のメッセージを「示し」ている。素材の取り合わせや置き方自体が、彼の哲学を表現しているのだ」

 

ちょっと前に流行った言葉でいえば、キュレーションってことか。だからこそわかりやすい、面白いと思わせるのだが、そこにある本心はうまく隠蔽されているのか。では、どうすれば、わかるようになるのか。こう述べている。

 

「色々な文章を<断片>に分解し、様々な文章に散らばった個別のエピソードを集め、<断片>になる前の文脈を再構成すること。そして、一つの流れへと再編集すること」「首尾よくつなぐことができ、私たちは鶴見の言葉を「哲学」として読み解くことができる」

 

遺跡発掘で出土された土器の断片を集めて丹念に復元する行為にも似ている。

鶴見は帰国子女。「15歳から19歳のおわりまで米国ですごしたので」英語脳になった。

 

「帰国して数十年経った今、―略―困ったときには「松葉杖のように英語の助けを借りて日本語にもどる」という不器用なスタイルを採ることで、日本語を母国語とする名文家とは異なる理想を育てたと語っている」

 

伝えたいことや微細なニュアンスなど、が日本語よりも英語のほうが適切なケースもあっただろう。

 

ドストエフスキーから着想して、「オレはコーヒーを飲みたい。オレがコーヒーを飲むためなら、世界が破滅したってかまわない」という言葉を鶴見は提示していた」


「「好み」のためなら自分の命や将来、世界の存亡なども、究極的にはどうだって構わない。アーレントの言葉を用いるなら、鶴見の言う「好み」」は、自分自身にのみ依拠した「論理的強情」ないし「私的感覚」にほかならない。そして、「好み」を探り当てる上で何より重要なのは、価値や意味を疑うことで関心から世界を徹底して排除し、共通感覚を放棄する―他者の是認/否認など気にしないかのような地点に立つ―ことである。ここで見つかる開き直りの姿勢を探り当てるための、懐疑のプロセスのことを鶴見は「ニヒリズム」と呼んだ」

 

このあたりか。鶴見が「私はヤクザですから」と言っていた真意は。


孟母ならぬ猛母は、長男である鶴見に過度な期待をかけた。「濃密な愛情」それが重荷となって精神的に傷つき、グレた。見かねた父親が、つてを辿って渡米させた。アダルトチルドレンの一人だったのかもしれない。

 

「鶴見が母につけられた「傷」を消すことができなかったように、自己の傾きは自分の思いだけでどうにかなるものではない。「傷」は、「生きている限り働き続ける問題」で、「解決できない」からこそ、それとどう付き合うかということが、自己のあり方を大きく左右していく。だからこそ、「傷」を参照しつつ、現在の自分に問いを投げかけることは、「未知をきりひらく力」になるかもしれない。―略―「傷」から問いを汲み上げ、自己を傾けようとする内発的な「力」のことなのだろう。そして、それこそが鶴見の言うヴァルネラビリティ」なのだ」

 

この本から得たことで鶴見俊輔の著作を再読してみよう。


あ、些末なことだけど、映画『カリガリ博士』が『ガリガリ博士』と誤植が2か所あった。

 

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