薔薇がなくちゃ生きていけない

オーウェルの薔薇

オーウェルの薔薇』レベッカ・ソルニット著 川端康雄訳 ハーン小路恭子訳を読む。

 


著者がイギリスの出版社とのトラブルがあって直接、乗り込むことに。ならば長年の懸案だったジョージ・オーウェルが丹精込めて手入れしていた庭を、見たい。ひょっとしたらオーウェル手ずから植えた薔薇があるかもしれない。

 

「彼は庭師であるだけでなく、熱心な自然観察者でもあった」
「1940年に彼は作家へのアンケートに答えて自己紹介の一文を書き、「仕事以外での私に最大の関心事は庭いじり、特に野菜の栽培である」と書いた」


几帳面に記した野菜の収穫メモはなんか宮沢賢治をイメージさせるし、創作以外の時間は庭作と畑作に注ぎ込んださまは、ソローを彷彿とさせる。彼にそんな一面があったとは知らなかった。


単なるオーウェルの評伝でもなく、薔薇の栽培の歴史・文化史など、いつものようにあえて話があちこちに飛ぶ楽しい展開。

 

作者はこう述べている。

 

オーウェルの薔薇について、またその薔薇がどこに連れて行ってくれるのかについて考えることは、そぞろ歩きのようなプロセスであると同時に、リゾーム的であるのかもしれない。これはイチゴのように根や匍匐枝をさまざまな方向に這わせる植物を記述する際に用いられる言葉だ。哲学者ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリは、この語を用いて脱中心的で非階層的な知のモデルについて説明した」

 

ドゥルーズ =ガタリの提唱したリゾーム。著者の本は、まさにリゾーム的。

 

薔薇はその数に圧倒される。薔薇の歴史は品種改良の歴史だったと。

 

「1792年から1824年にかけて、チャイナ・スタッド・ローズとして知られることになる四種の中国産の薔薇が英国に持ち込まれた。それらはまるで競走馬の種馬、たとえば一世紀前にもたらされて英国の雌馬と交配され、サラブレッドを生んだアラブの雄馬のようだった。中国原産であるにもかかわらず―略―薔薇には英国人の名前がつけられた。―略―オーウェルの家で私が出合った薔薇は11月初旬でも花を咲かせていて、現在西洋で育てられている園芸用薔薇のほとんどすべてのものがそうであるように、間違いなく部分的にはこれらの中国産薔薇の形質を受け継いでいた」

 

古川庭園には見事な薔薇園がある。そこには、なんと皇族妃の名前の薔薇が咲いていた。

 

自由人オーウェルは反ソ・反共作家というようなレッテルを貼られることをひどく嫌った。

 

ハンナ・アーレントのように、オーウェルは杓子定規のイデオロギーを嫌い、それを人が生きていくうえでぶつかる複雑で矛盾に満ちた事態から身を防ぐ盾、あるいはそれに立ち向かう棍棒のようなものとみなしていた」


たとえば代表作である『1984年』。著者が再読した感想。

 

「今回私が印象的だったのは、『1984年』のなかにみずみずしさと美しさと喜びが何と多く見られるかということだった。そうした要素は危機に瀕していて、人目を忍び、損なわれているが、それでも作品中に存在している。『1984年』は主に、ビッグ・ブラザー、思考警察(ソートポリス)、記憶穴(メモリーホール)、ニュースピーク、拷問、等々、極めつきの全体主義の世界像の諸相を鮮やかに描き出した小説として記憶されている」

 

そしてソルニットは、『1984年』は「予言の書」ではなく「警告の書」だと。

 

「『1984年』は、現存する危険と同様に潜在的な危険に対する警告でもある。それはオーウェルが大切だと思った事柄のすべてを擁護したものだ。―略―警告は予言ではない。警告というのは、私たちに選択肢があると想定し、いかなる帰結をもたらすかいについて私たちに注意を与えるものだ。予言のほうは、固定された未来に基づいて作用する。―略―さまざまなユートピアディストピアについて思索している小説家オクティヴィア・バトラーが述べたように、「さまざまな可能性を見極めるために先を見据えて、警告を示そうと努める行為そのものが、それ自体で希望の行為なのである。オーウェルは、結核でゆっくりと命を削られていくなかで小説を完成させた」

 

この引用を結びの一文代わりに。

 

「重要な本を読み直すことは、古い友人を再訪するようなものだ。そうした本に再会するときに、あなたは自分がどのように変化したかを知ることになる」

 

キャッチフレーズは「スカーレットの誓い - ムーンライダーズ」の歌詞を一部引用。

 

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