<存在>=<吐き気>=不条理性

嘔吐 新訳

『嘔吐-新訳-』ジャン‐ポール・サルトル著 鈴木道彦訳を読む。

 

大昔、白井浩司訳『嘔吐』を読んだのだが、もうすっかり忘れている。 最後まで読んだのだろうか。ぼく的にはカミュの『異邦人』のほうが、刺さったし、サルトルなら『存在と無』のほうに、惹かれた。わかったかどうかは別にして。

 

アントワーヌ・ロカンタンは世界各地を旅してから港町ブーヴィルで論文をまとめるため3年間滞在している。「ロルボン侯爵にかんする歴史研究」だとか。その日々を日記形式で書いている。延々と続くモノローグ。

 

キルケゴールの『誘惑者の日記』やヌーヴォー・ロマンの作品に似ていると感じた。訳者は高名なプルースト研究者ゆえ、プルーストにも通じるものがあると。


論文はなかなか進まない。


別れてしまった恋人アニー、カフェのマダム・フランソワーズとは「性行為が部屋代代わりの関係」。図書館で顔見知りになった独学者と懇意になる。彼は第一次世界大戦時、ドイツで捕虜になったという。

 

彼は何事に対しても吐き気を覚えるようになった。


「不条理性とは、頭のなかに生じる観念ではなかったし、声となって発せられる息でもなく、私の足許で死んでいたあの長い蛇、あの木の蛇だった。―略―自分が<存在>の鍵を発見したこと、<吐き気>と私自身の生の鍵を発見したことを理解していた」

 

<存在>=<吐き気>=不条理性。

 

アニーとの再会。彼女の宿泊先のホテルで。彼女は「ロンドンで芝居をしていた」。
お互いのことを話すが、一度できた心の距離は縮まらない。未練が残るロカンタンとそうではないアニー。

 

「今は彼女の顔がはっきりと見える。とつぜんそれが蒼白になり、やつれた顔になる。まったくぞっとするような老婆の顔だ」

 

そう見えるのは彼の心根を投影したものだろう。よーーくわかるよ、ロカンタンくん。

 

マロニエの木の根など植物に関する描写が多いが、何のメタファーなのだろうか。下記の箇所が単に好みなので引用。

 

「私は都会が怖い。しかし都会から出て行ってはならないのだ。もしあまり遠くまで足を延ばして危険を冒すと、<植物>の領域に出くわす。<植物>は何キロメートルにもわたって、町の方へと這ってきた。そして待っている。町が死んだら、<植物>が町に侵入し、石の上によじ登り、石を締めつけ、掘り起こし、黒く長いペンチで粉々に砕くだろう。<植物>は穴をふさぎ、至るところに緑の脚をぶら下げる」

 

図書館で独学者はリセの少年二人に性的な悪戯をしていたという。小児性愛者だったのか。彼は論文を断念、ブーヴィルを去ることにした。

 

「アントワーヌ・ロカンタンは存在していない。それが私には面白い。しかもこのアントワーヌ・ロカンタンとはいったい何か?それは抽象的だ。私についての僅かばかりの微かな思い出が、私の意識のなかで揺らめいている。アントワーヌ・ロカンタン…。そして不意に<私>が薄れる。どこまでも薄れて、ついに万事休す。それは消えた」

 

初期の大江健三郎サルトルの影響を受けていることも再認識することができた。


大学時代、実存哲学の講義で矢内原伊作先生は『嘔吐(おうと)』を「おうど」と発音されていた。浮かんだ映像は、マロニエの木の根元に、勢いよく大量に吐瀉するアントワーヌ・ロカンタンだった。

 

この本の新新訳を町田康あたりに頼んだら、タイトルも『反吐』とか『ゲロゲロ』になって、ロカンタンの印象も様変わりするかもしれない。

 

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