「うめき」と「戦慄」と「静謐」と―私小説ちゅうもんはなあ

 

 

『業柱抱き』車谷長吉著を読む。

 

私小説は自己の存在の根源を問うものである」と述べる作者が、いかにして私小説を書くようになったか。あるいは、いかにして私小説作家になったかをめぐる随筆集。

 

仕事の合間に沸沸と心の奥底に沸き上がるものを、言葉にしては、書いては消し、消しては書いて。穴の開くほど推敲を重ねて出版社に投稿、やがて雑誌に掲載される。望外のことで狼狽する。作家の肩書きをもらい、文学賞ももらって、最も困惑しているのは当の本人。その辺りの心境が赤裸々に綴られている。

 

私小説は、人に忌まれ、さげすみの標的にされて来た。そのような言説をもっぱらに主導して来たのは、バルザックゲーテを原書で読める語学力を、自慢顔に云々(うんぬん)する西洋崇拝乞食たちであった」と物語作家に対しての矛先は鋭い。
一方、昨今の私小説作家に対しても、つらつらと退屈な日常生活をありのまま書けば私小説なのかとこちらにも手厳しい。

 

意外なことに、作者自身が、カフカに大きく感化されていることを知った。世紀末の都市プラハを舞台に、人間の不条理や毒などを職業小説家ではなく、保険局勤務(正しくはボヘミア王国労働者傷害保険協会プラハ局)の陰の楽しみとして―語弊があるかもしれないが―創作に励んでいたカフカに、売文の輩に堕さない者として、作者は強いシンパシーを感じているようだ。

 

話は、前後するが、しかし、いちばん厳しいのは書き手より、読み手だろう。西洋崇拝物語作家だろうが、私小説作家だろうが、そんなことはどうでもよい。単に、面白い、凄い、驚く、ハラハラする、泣く、わめく。読んでなにがしか残るものが、身銭を切った甲斐のある良い作品なわけで。

 

ぼく的には、アパートの隣人に作家の松浦寿輝がいたというエピソードが面白い。その時は、面識はなかったようだが。いろんな意味において対極的な二人が、同じ屋根の下にいたというのは、なにかを感じさせる。

 

作者の書く、まるで職人芸のような私小説の根底にあるのは、「うめき」「戦慄」「静謐」だとか。なるほど、そこにぼくは、惹かれているのか。

 

人気blogランキング