「文学探偵」と助手による見事な推理

 

『謎ときサリンジャー-「自殺」したのは誰なのか-』竹内康浩著 朴舜起著を読む。

 

サリンジャーの『バナナフィッシュにうってつけの日』は、『ナイン・ストーリーズ野崎孝訳で十代の終りに読んだ。ほぼ半世紀後に柴田元幸訳で再読した。

 

バナナフィッシュがけったいな魚であることとシーモアが突然拳銃で自殺したことの不可解さを再認識した。

 

そこで「文学探偵」竹内康浩が助手の小林少年的役割の朴舜起とともに、ほんとうにシーモアは自殺したのかと原作を綿密な捜査のように査読、分析、推理する。

 

いやあ、これが、すごい。名探偵ホームズも真っ青になるぐらい。こんなところ。

「「バナナフィッシュ」を読み返してみると、不思議なことに気づく。全ての読者は、結末で自殺をしたのはシーモアだと思っているし、バディー(シーモアの弟・作家―註ソネ)も後の作品でそのように回想している。しかし、「バナナフィッシュ」においてサリンジャー自身は、銃で頭を撃ち抜いた男がシーモアであったとは一言も言ってないのである」


第二次世界大戦でヨーロッパから帰還したシーモア。おそらくはPTSD(Post Traumatic Stress Disorder :心的外傷後ストレス障害)を患っている。これは、サリンジャー自身を投影したキャラクターと思っていたら、バディーこそサリンジャーの分身と書いてある。

 

「銃を撃ったのはシーモアなのか、バディーなのか、あるいは自殺なのか、他殺なのか、と区別する問いは必要なかったのだった。シーモアの言葉を借りれば「どっちがどっちのものかなんていちいち気にする必要はないんじゃないか?」ということである。むしろあの音は、二人で同時に出している音なのであった。さらに言えば、二人がいなければ生まれることのない音だったのである」


『バナナフィッシュ』だと、サリンジャーよりも吉田秋生の漫画を思い浮べる人の方が多いかもしれない。内容はまったく似ていないが、吉田秋生サリンジャーの小説にインスパイアされてこの漫画を描いたことは周知のことである、たぶん。

 

素晴らしいと思ったのは、芭蕉=バナナ。サリンジャー鈴木大拙経由で松尾芭蕉の俳句を知って惹かれたようだ。「シーモア序章」からの引用の引用。

 

シーモアは他のどのような形の詩よりも日本の伝統的な三行十七文字の俳句をおそらく愛していたし、自身も俳句を―血を流すように―生み出していた」


ナイン・ストーリーズ』の一篇『テディー』。いわば天才少年である彼も芭蕉のファンだった。

 

「テディによると、芭蕉の俳句は「感情の表現」であふれていない。芭蕉がバナナであり、ここで私たちが「バナナフィッシュ」を思い出すべきならば、たしかにそこで描かれていた男の死にも、感情が奇妙なほど欠如していたことに改めて気付くかもしれない。そのとき、常識的に死にもまとわりつくはずの感情は、一片たりとも描かれることはなかった」


ライ麦畑でつかまえて』の主人公ホールデン・コールフィールドにも言及している。17歳の名門校の落ちこぼれ。強さと弱さ、大人っぽさと子どもっぽさが複雑に入り交ざった多感な少年。弟アリーの病死が、トラウマとなったようだ。こういう推理。

ホールデンはアリーが死んだ晩から、自分でも知らぬ間に、弟と「ミート」する(入れ替る)その方向に踏み出していたようだ」

 

大学2年生前の春休み、吉祥寺のデパートで警備員のアルバイトをした。業務内容で午後の1時間、屋上を警備するというのがあった。小さな神社と鳥居があった屋上で何をするのか。要するに屋上から投身自殺者を未然に防ぐためだった。サリンジャーかぶれだったぼくは、こりゃホールデン・コールフィールドがなりたかった仕事と似てんじゃんと思った。幸いにそのような人は現れなかったが。

 

なるほど。「文学探偵」、こういうアプローチで古今東西の文学を再評価するのもありだな。ものすごい手間と時間がかかると思うが。

 

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