エンパワーメントとしての対話―「我、思う」から「我々、話す」へ

 

 

『水中の哲学者たち』永井玲衣著を読む。

 

アルキメデスは入浴しているとき、あふれるお湯を見て、はたと閃いた。これが、「アルキメデスの原理」。この本も南の透き通った海をシュノーケリングしているときに、何か真理や法則を閃いた。つーことは書いていない。

 

沈思熟考もしくは沈思黙考、深く考えることは、水の中を潜ることに似ているから、つけたそうだ。

 

作者は「哲学対話」のファシリテーターとして哲学の楽しさを広める活動をしている。
ファシリテーターとは、単なる司会ではなくMCとかお笑い用語なら回しのようなもの。潤滑油のような存在。

 

確かに哲学ってむつかしい。笑えるくらいだ。IT用語や金融用語も難解だが、哲学用語は相変わらず難解用語ランクの上位にいる。んでもってなんか誤解もされている。

 

確か、「対話 」から「弁証法」が生まれたんじゃん。と思ったら、当該箇所が出て来た。

「哲学対話は、ケアである。セラピーという意味ではない。気を払うという意味でのケアである。哲学は知をケアする。真理をケアする。そして、他者の考えを聞くわたし自身をケアする。立場を変えることをおそれる、そのわたしをケアする。あなたの考えをケアする。その意味で、哲学対話は闘技場ではあり得ない」

ディベートとか論破とかは論外。武器として哲学を理論武装するのは、哲学ダース・ベイダー。あ、思いつき。

「だからといって、哲学対話は共感の共同体でもない」

ああ、ここ、すごく、大事。場の雰囲気を壊したくないから、自分の考えを曲げてでも他人の考えに合わせるとか、しがち。

「「対話:ディアロゴス」は、「言葉を通じて」ひととひとが交わりあうことを意味するとされている。その派生語には「弁証法:ディアレクティケー」がある」

弁証法を作者はこう述べている。

弁証法は、異なる意見を前にして、自暴自棄に自身の意見を捨て去ることではない。異なる意見を引き受けて、さらに考えを刷新することだ。中間をとるのでもない。妥協でもない。対立を、高次に向けて引き上げていくことだ」

 

これが止揚(アウフヘーベン)ってヤツ。

「だがそれは対話において「変容する」ことへの容認がなければならない」

「容認」、寛容。ひょっとしたらカルシウム以上に現代人に不足していることかも。

 

ときには真面目に、ときにはおかしく、くだらなく、
哲学研究者の日常生活が軽やかに描かれている。
ひょっとしたら作者は岸本佐知子のエッセイのファンではないかと睨むんだけど。

 

kotobank.jp

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