未開社会への見方が変わる

 

『国家をもたぬよう社会は努めてきた クラストルは語る』ピエール・クラストル著 酒井隆史訳・解題 を読む。


ピエール・クラストルに関するガイドブック。

巻末の著者経歴によると当初は哲学を学んでいたが、後、文化人類学クロード・レヴィ=ストロースに学ぶ。つーか共産党と手を切って人類学に転向したと。

気になるところを引用。

 

「わたしは民俗学者です。―略―わたしの研究対象は未開社会であり、もっと絞り込めば南アメリカです。―略―未開社会とはなんでしょうか?それは国家のない社会です。―略―未開社会に国家がないとしたら、その社会が国家を拒絶する社会であり、国家に抗する社会だからであるようにおもわれるのです。未開社会における国家の不在は、欠如の反映なのではありません。なぜ国家が不在なのか。その社会がいまだ未熟な段階だから、不完全だから、というわけではないのです。―略―それはまさしく、その社会が広い意味での国家、すなわち権力関係というミニマルなかたちで規定されるような国家の拒絶の結果なのです」(ピエール・クラストル インタビューより)

 

「未開社会=国家のない社会≠後進国」ってことか。国、そんなものはは要らねえ。アナーキーじゃん。

 

人はなぜ結局隷従してしまうのか。ここも、面白かった。クラストルが先達の一人とみなしていた思想家ラ・ボエシの響いたところ、訳・解題者の言説を引用。

「なぜ自由の身で生まれついた人間が、隷従に甘んじてしまうのか。―略―ラ・ボエシはおおよそこの隷従の過程をこう考えていた。まず、最初は力によって強制されたり、打ち負かされたりして隷従を強いられる。ところが、それ以降にあらわれる人々は、屈託もなく隷従し、かつては強制されてなしていたこともすすんでおこなうようになる。そうして、―略―それこそが自然な状態であると考えてしまう」

 

ラ・ボエシの解釈。


「第一の原因は「習慣」だった。自然に比較して習慣は強いのだ。さらに隷従が習い性になるとそれは臆病を生む。そして臆病がさらなる隷従をよびこむ。それゆえ、隷従をもたらす原因の二つ目は臆病とされる。こうした要因が、人間の本性を変成させ、「脱自然化」にみちびいてしまう、というのである」

 

「習慣」を換言するならば馴化、パターン化。「臆病」を換言するなら保守化ってことだろうか。

 

ついでに、このことも知らなかった。


「クラストルの思考を人類学の領域を超えて普及させたのは、とくに日本語圏では「社会主義か野蛮か」グループであるよりはドゥルーズ+ガタリだろう。かれらはすでに『グアヤキ年代記』と同年公刊の著作『アンチ・オイディプス』において、社会・歴史認識という点で、クラストルにきわめて大きな影響を受けていた」


賛同もあるし、批判もあると。

 

ディヴィッド・グレーバーの師であるマーシャル・サーリンズは、クラストルにとって不可欠な関係だったと。サーリンズの論文『初源の豊かな社会』。その要旨を訳・解題者がまとめているが、わかりやすいし、ぼくは納得できたのでまんま引用する。

「未開社会=国家のない社会≠後進国」の解答にもなっている。

 

「〇未開社会の経済は、「生存経済」ではない。つまり未開社会とは、貧困にあえぎ、ギリギリの飢えの不安のなかで生きていられる社会ではない。そうではなく、その社会は、最小の労働と最大の「余暇」のなかで自由に生きられる「豊かな社会」である。
〇かれらは蓄積をしない。その都度、必要な量を確保できたならば、それ以上働かずに休むのである。
〇ここからあらわれるのは、ヨーロッパの近代的思考を支配してきた「ホモエコノミクス」からほど遠い人間である。すなわち、利用可能な労働と使用可能な資源を最大限動員するというのではなく、客観的経済的可能性を最小限利用しているのである」

アリからキリギリスへ―未開社会の見方が変わる。

 

おっと、大事なことを書き忘れていた。
パリ遊学時代、ピエール・クラストルの『グアヤキ年代記』に感動し、英語に翻訳したのが、当時は無名の若き小説家ポール・オースターだった。

 

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