『マルチチュード(上)(下)<帝国>時代の戦争と民主主義』昔、書いたのに若干プラスして

 

 

 


ネグリ=ハート-現代思想界の藤子不二夫-が提唱する「マルチチュード」。よくわからないが、おもしれえ。


マルチチュード(上)(下)<帝国>時代の戦争と民主主義』アントニオ・ネグリ マイケル・ハート著 幾島幸子訳を読む。(上)(下)の生煮えレビュー。昔、書いたのに若干プラス。

 

たとえば旧来の帝国軍隊は『伽藍とバザール』でいえば、統率のとれた伽藍方式。トップダウン。一方、ゲリラは文字通りゲリラで分散的知性、バザール方式だった。
んでもって軍隊がいままでのスタイルでは通用しなくなり、畢竟、ボーダレスな「ネットワーク状」にカイゼンしたと。それはパスク・アメリカーナ(「アメリカによる平和」)という名のグローバリゼーションにも同様のことがいえる。

 

「社会経済的な観点から見れば、マルチチュードとは<共>的な労働主体であり、言いかえればポストモダン的生産の現実的な<肉>である。と同時にそれは、集合的資本がグローバルな発展を推進する身体[=集団]に変質させようともくろむ対象でもある。国家がマルチチュード有機的な統一性に仕立て上げようとするのだ。労働にまつわるさまざまな闘争を通じて、真に生産的な生政治的形象としてのマルチチュードが立ち現われるのは、まさにここである」

 

おんもしれえや。「マルチチュードの概念」ってやはりよくわからないんだけどね。

以下引用。

 

「これまで共産主義者社会主義者は一般に、貧者は資本主義的生産過程から排除されているため、政治組織の中心的役割からも排除されなければならないと論じてきた。そのため従来の政党は主として主導的な生産形態に従事する前衛としての労働者で構成されており、そこに貧しい労働者や、ましてや失業者の入る余地などなかった。貧者は危険な存在とみなされていた。貧者は、泥棒や売春婦、麻薬常習者などと同じく生産に関与しない社会の寄生虫であるがゆえに道徳的に危険であるか、あるいはまた組織をもたず、予測不能な行動をとり、反動的な傾向をもつゆえに政治的に危険であるかのいずれかだというのである」

 

ここで述べられている「貧者」とは、マルクスいうところのルンペンプロレタリアートだろう。まるで反社勢力みたいな扱い。

 

「ポストフォーディズムの時代にあっては、かつて支配諸国の労働者階級の多くの部門が当てにできた安定し保証された雇用は、もはや存在しない。労働市場の柔軟性と呼ばれるものは、どんな職も確実ではないということを意味する」

 

フォーディズムは大量生産・大量消費だったが、
ポスト・フォーディズムは欲望がキーとなり、多品種少量生産となった。
フォーディズムが横並び、人並みなら、ポスト・フォーディズムは差異化、差別化ということ。このあたりならおわかり願えることだろう。

 

雇用の流動化とは、このこと。たとえばAIや移民による作業の代替化など。
非正規社員の正規社員化と正規社員の非正規化もある。
終身雇用制なんてなくなるってこと。

「物質的生産―たとえば車やテレビ、衣服、食料品などの生産―は社会的生産手段を作り出す。近代的な社会生活形態は、これらの商品なしには成立しえない。これに対して非物質的生産―アイディア、イメージ、知識、コミュニケーション、協働、情動的関係などの生産―は社会的生活手段ではなく、おむね社会的生そのものを創り出す。非物質的生産は生政治的なものなのだ」

 

「非物質的生産」って「第四次産業」のことかな。
第一次産業(農林水産業)、第二次産業(製造業・建設業)から第三次産業(金融・サービス業)が全盛となったいま、モノじゃなくてサービスやコンビニエントが商品なわけで、それを製造しているなら虚業じゃないよな。昨今流行の「Web2.0」にならえば、新たに「第四次産業」としてIT系企業を包含してしまえばとも。いいじゃんと思ってgoogleってみたら、ちゃんとあった。

 

「こうした生政治的生産は固定的な時間単位で数量化できないがゆえに測定不能なものである一方、資本がそこから引き出す価値は―資本は決して生を全面的に捕獲することはできないがゆえに―常に過剰なものだということである」

 

終わらない拡大再生産。
このあたりバタイユの『呪われた部分』とリンクする部分があるように思われる。
くわしくは改めて。でも、確約はしないよ。


生政治に食い物にされている圧倒的多数を誇る非富裕層。
しかし、群集になれば、協同的知性により新しい政治体制、社会を構築するということをいいたいのだろうか。

 

監修者のあとがきによれば「「共」とは「コモン」の訳語」だそうだ。
レッシグの「クリエイティブ・コモンズ」に感化された言葉のようだが、
インターネットと協働の分散的知性と「マルチチュード」が、どう関連付けられるのか、これもまたぼくには明解ではない。

 

本書に出てきた「白いツナギ運動」*がカッコよかった。

 

「1990年代半ばのローマ」で白いツナギを着た反グローバリズム集団が「大都市で大規模なレイブパーティ」を夜な夜な開催した。ストリートレイブパーティーはそのままデモとなり「各地の都市へと急速に進行した」。「次第に警察との対立が深刻化して」いき、警官たちも重装備するようになり、それに応じて彼らも白いツナギに白いニーガード、レイブのトラックも装甲車風に「改造」した。やがて彼らは「メキシコの反乱支持グループ」と共闘を組むようになる。その理由は「グローバル資本が作り出した新しい暴力的なリアリティのなかで搾取されているからだ」

 

思想的にどうこうというよりも、ただ単にトランスミュージックを大音量で流してダンスしながらデモをする、その遊び感覚がカッコいい。

東京レインボープライドとか。デモというよかパレード。

 

*「トゥーテ・ビアンケ(白いツナギ)
イタリアで最も戦闘的な反グローバリズム団体。ジェノヴァでのG8反対デモの主要勢力の一つ。トゥーテ=tute(複数形、単数形はtuta)とは、イタリア語で上下ツナギの作業服のこと。」
Societa' & Cittadiniより


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