1941年、南洋群島にて

 

中島敦 父から子への南洋だより

中島敦 父から子への南洋だより

  • 発売日: 2002/11/05
  • メディア: 単行本
 

 

『父から子への南洋だより』中島 敦 川村湊編を読む。

 

時折、町の骨董店を冷やかしでのぞく。と、いっても同じ旧いものでも、購入するのはもっぱら本の方であるが。店頭の目玉品コーナーの下の方に旧い絵葉書が箱に入れられていることがある。人着によるカラーのものだったりすると、実にいい味わいを表現している。外国からの絵葉書だったりすると、束の間、どんな物語があったのだろうかと考えたりする。

 

作者が「当時日本の植民地だった南洋群島(現パラオサイパン、トラックなどのミクロネシア)」へ渡った1941年から1942年の間、ほぼ毎日のように子どもへ-時には妻へも-出し続けた大量の絵葉書をまとめあげたのが、本書である。

 

史実を辿れば、第一次世界大戦が勃発してまもなく、ドイツに宣戦布告した日本は、それまでドイツ領であった南洋諸島を占領、ベルサイユ条約で正式に日本の領有となる。そして1921年、日本はパラオのコロールに南洋庁を設置する。敗戦までの四半世紀、日本語が第一言語となる。

 

絵葉書の消印が、ヤルート郵便局、パラオ郵便局、サイパン郵便局と日本語で記述してあるのが、今となっては違和感を覚える。

 

作者が教師を辞して、「南洋庁の国語編修書記」-「南洋群島の現地の子どもたちの(日本語の)国語の教科書を改訂し、改良していくことが」主な任-に奉職したのは、少しでも給与の高い職に就かねばならない家庭の事情があったようだ。

 

子どもを思う父親のやさしさにあふれたペンで書かれた文面には、南方の珍しい果物や人々、澄んだ海や熱帯魚などが記されている。ときには、子どもからの手紙の誤字・脱字を注意したりしている。妻への文面には、家を離れた家長としての伝言や時にはグチなどが書かれている。

 

教師時代、生徒から慕われていた中島は、同僚というか部下の役人然とした態度やシステムにはなじめず、孤立していたふしがある。

 

何よりも驚いたのは、絵葉書の種類の多さだ。本書巻頭のカラー図版には、南の島々や美しい海、ゴーギャンの絵から抜け出てきたような島の娘たち、色とりどりのトロピカルフルーツ、サンゴ礁、ヤシの並木や島々の移動に使用した飛行機朝潮機などバラエティに富んでいる。

 

なぜ、このようにまとまっていたか。編者の川村によると、作者の友人がこの絵葉書を出版化しようとしていたからだそうだ。

 

作者の『山月記』を読んだのは、中学の時の国語の教科書だった。漢文調とでもいえばいいのか、擬古文調とでもいえばいいのか、ちょっとクラシックな端正な文体は、どこか芥川竜之介を感じさせた。若くしてその才能を惜しまれながら病死したことぐらいは覚えていた。本書で南洋群島から帰国してまもなく死去したことを知った。

 

編者は「日本のミクロネシアに対する過去の植民地支配を“記憶”し、反省するよすがになるかもしれない」とひとくさりしているが、日本のポストコロニアルなどしちめんどくさいことは抜きにして、ただ単に絵葉書の絵と文だけでも読むに価する。

 

南の島にどこか引かれたり、エキゾチシズムよりもノスタルジーを覚えるのは、遺伝子に組み込まれているからなのだろうか。バリ島へ行った時、知り合いとそっくりのバリ人がいて、びっくりしたことがある。日本をヤポネシア命名した島尾敏雄の先見性をふと、思った。

 

なんだか思わぬ贈り物をもらったような気分になった。

 

人気blogランキング